天智天皇の史跡
天智天皇は、大化の改新を起こした中大兄皇子としては一般的に知られていますが、即位後に行う政治についてはあまり認知されていません。その政治の舞台となった滋賀の大津宮跡や崇福寺跡、京都の天智天皇陵をフィールドワークしてきたので、当日の様子を紹介します。
まず訪れたのは大津宮錦織跡です。写真は第å八地点のものですが、内裏(古代都城の宮城における天皇の私的区域のこと)南門の一部が存在するものと考えられており、まさに大津宮中枢の入口にあたる重要な場所とのことでした。
こちらは発掘場所。
なんとこれだけ住居に隣接しています。子供が発掘場所で遊んでいそうな雰囲気でした…。
下のピンが大津宮跡の第八地点である内裏があったと考えられている場所で、上のピンが崇福寺跡のある場所です。崇福寺とは天智天皇が大津京の鎮護のために建立したものです。当日は歩いて移動したのですが時間は40分程でしたでしょうか。大津宮の広さを肌で感じることができました。
道中に天智天皇が祀られている近江神宮があります。神社としての歴史は比較的浅く昭和15年に建てられたものです。また、天智天皇が水時計を造り時報を行ったことから、境内に時計館宝物館が設けられていました。(あまり興味がなかったので見学しませんでしたが…)
崇福寺は山中にあり、道もなかなか険しいです。当時の人はどのぐらいの頻度でこの場所を訪れていたのでしょうか…。そのようなことを考えながらひたすら歩きました。
しばらく歩くと金堂跡に立てられた崇福寺跡を示す碑があります。
これは後方から撮影したもの。
周囲の写真。
また、崇福寺跡は百穴古墳群に隣接しています。
この古墳群は確認できるものだけで60基、埋没したものも含めると100基以上になると想定されている大変興味深いものでした。時代は6世紀と考えられており、ドーム状の横穴式石室を持ち、祭祀用の炊飯具が一緒に納められていたのが大きな特徴です。これは大津市の坂本から錦織の地域に集中して見られるものです。また、錦織という地名は、かつてこの地で機織(はたおり)の仕事をしていた渡来系の錦織氏から由来したものと言われており、この古墳群は渡来人の共同墓地であったのではないかと考えられています。
天智天皇が大津宮に遷都した理由にいまだ決定的な説はありません。しかし、この場所に渡来系の有力豪族や職人が多く居住していたことにやはり関係性があったのだと思います。
場所を移して京都は山科の天智天皇陵です。
道路に面した道を10分ほど歩きます。
とても静かな空間でした。よく整備されていますし、史跡とはまた違う独特の雰囲気があります。
なぜ大津宮で政治を行なっていた天智天皇の陵が山科にあるのか不思議なところなのですがこれも確説はありません。平安時代末期にかかれた歴史書「扶桑略記」では、”天智天皇が馬に乗って山科の里まで遠出をしたまま帰って来ず、後日履いていた靴だけが見つかった。その靴が落ちていた所を陵にした”としてありますが、日本書紀には天智天皇は病死したことになっています。
なぜか山科に存在する天智天皇陵…興味深いところですが、これ以上深堀りすることは他の人に任せて、私は政策について調べていくことにします。近いうちに政策に関わるエントリーを投稿するので、よろしければそちらにもお付き合いください。
大宝律令までの時代背景
前回のエントリー「飛鳥時代の政治と蘇我氏」では、乙巳の変までを蘇我氏を観点にまとめました。ここから歴史は律令国家の成立にむけて動き出していくことになります。私は日本史のなかでも、この”律令国家の成立”にとても興味を持っており、少し時間をかけて掘り下げていくつもりでいます。まずこのエントリーで当時の時代背景を探っていきたいと思います。
※こちらの文献から引用しつつ、自分なりの意見を加えて、時代背景を書いていきます。
- 乙巳の変後
乙巳の変で蘇我入鹿が中大兄皇子・中臣鎌子らに暗殺されると、皇極天皇が譲位を宣言します。これが初めて天皇家が天皇位を独自に決定する方式の実現でした。譲位先については、日本書記に“当初は中大兄皇子が推されていたが、年齢・系図の順序から軽皇子となった”とあります。また、この譲位を巡って、蘇我系の古人大兄皇子の名前が挙がりますが、本人が辞退しています。おそらく当時の蘇我氏が置かれている状況を考えたのでしょうが、吉野に隠居した後に、謀反の疑いをかけられて処刑されています。こうしたなか生まれたのが孝徳天皇(軽皇子)です。
孝徳朝では646年に改新の詔を宣します。その内容は、今までの国家体制を大幅に変革し、中央国家構築の起点となるものでした。しかし、後の律令条文と類似している部分が多く、日本書記に記載されている改新の詔が当時のものであったかは古くから議論されていますが、いまだに結論は出ていません。ここでは、あくまで時代背景を認識していきたいので、具体的な政治内容については別エントリーにまとめます。
653年、孝徳天皇と中大兄皇子に対立が生まれ、中大兄皇子は皇極前天皇や孝徳の大后らを連れて飛鳥に戻ります(当時は難波宮でした)。対立の原因は不明ですが、「まだ脆弱だった天皇の権力を絶対的なものとするため、性急な改革を進める孝徳天皇に反対する勢力であったのでは」と学者の篠川賢は述べています。因果関係があったのかは不明ですが、その翌年に孝徳天皇は死去します。天皇位の継承者には、中大兄皇子の名前が挙がりますが、孝徳の子である有間皇子がいてこの時点ではそれは叶わず、結局は皇極前天皇が斉明天皇として再び即位します。斉明朝では国内の整備を進めていきますが、そのなかで国外の情勢は大きく動いていました。660年に唐・新羅の連合軍によって、日本と外交のあった百済が滅亡させられます。ここから白村江の戦いへ移っていきます。
この戦いを知るためには、660年の百済滅亡前後を振り返っておく必要があります。
643年に新羅が唐に百済・高句麗の領土侵犯を訴え、唐が三国に争いをやめるよう説諭します。この時、随の時代に征討を受けていた高句麗は、唐に対しても正面から敵対します。百済は表面上は謝罪するのですが、645年から始まった唐の高句麗征討の動乱に乗じて新羅侵攻を続けます。新羅は百済との争いのなかで、唐の軍事援助を受けるかどうかで意見が別れていきます。唐は新羅に対して「唐の皇子を国王に迎え入れること」を要求していました。そのなかで、唐の高句麗征討が失敗に終わり、648年に十余城を百済に攻め落とされ、新羅は危地に立たされます。そこで、唐の衣冠を服す・唐の年号を使用する・唐の律令を参考にした制度の導入…などを行い、唐との結合を深めていきます。その影響があってか、百済は651年に唐から新羅との和解を指示され、従わない場合は征討のあることを示唆されますが、百済は唐との対立の道を選んでいきます。
655年に唐の高句麗征討が再開します。この戦いは668年に高句麗が滅亡するまで続くことになります。一方、百済と新羅も争いが続いており、659年に新羅は唐に救援を要請し、唐は高句麗征討の一環として、高句麗に味方する百済の成敗を決定します。そして、660年に唐・新羅の連合軍によって百済は滅亡することになります。白村江の戦いは、百済が復興に立ち上がった際に、日本が救援に乗り出したことにより発生した戦いなのです。
661年に斉明天皇は戦いに備え、前線基地となる筑紫に遷居します。しかし、既に高齢であった斉明天皇はここで死去してしまいました。筑紫に宮を造営するときに朝倉社の木を伐ったことによる祟りとの噂もあり、早くも雲行きが怪しくなりますが、王位継承の有力候補であった中大兄皇子が大王位を代行し、百済救援の指揮をとることでこれを乗り切ります。ちなみに、中大兄皇子が長らく即位をしないのですが、その理由には、665年に死去した孝徳天皇の大后の間人皇女との関係があったためという説、代行のままの方が自由に手腕がふるえたという説、など様々な説がありますが確説はありません。
さて、その白村江の戦いですが、日本書紀にはこのように記されています。
「日本の諸将、百済王と、気象を観ずして、相謂ひて曰く、「我等、先を争はば、彼応(まさ)に自(おのづか)ら退くべし」と。更に、日本の乱伍の中軍の卒を率ゐ、進んで大唐の堅陣の軍を打つ。大唐、便ち左右より船を爽(はさ)んで繞戦(じょうせん)す。須臾(しゅゆ)の際、官軍敗続す。水に赴いて溺死する者衆(おほ)し。艫軸(へとも)、廻旋するを得ず。……其の時、百済王豊璋、数人と船に乗り、高麗に逃げ去る。」
我らが先に攻めれば向こうが退くだろうという精神論がなんとも日本人らしく皮肉ではありますが、稚拙な戦略しか持たない日本の敗戦は必然であったといえるでしょう。また、軍の編成にも問題点を抱えていました。日本の軍隊は、地方豪族が集めた兵を主力とする軍を、将軍に起用された中央豪族が引率する形をとっていましたが、豪族同士の関係が並列的で指揮系統が成立していなかったといいます。この敗戦から日本はさらに中央主権国家構築の必要を再認識することになります。ともあれ、この敗戦で百済は完全に滅び、日本へ亡命するか、高句麗へ逃げてさらに戦うか、唐の支配下に入るかの決断を迫られることになりす。
この後に、中大兄皇子は甲子の宣(かっしのせん)を大海人皇子に命じて発令させるのですが、「646年孝徳朝の改新の詔」→「664年天智朝の甲子の宣」→「天武朝で始まる部民制の廃止(675年)等の諸政策」→「701年文武朝の大宝律令」これらの政策の移り変わりを理解することが、律令国家成立までの国家観の理解につながると感じているのですが、それはまた別エントリーで。次は壬申の乱について書いていきます。
壬申の乱は天智天皇(中大兄皇子)の後継者問題から起こります。
当時の後継者の候補は、大海人皇子と大友皇子でした。大海人皇子は、天智天皇の弟であって、甲子の宣の宣布など朝廷の政治に協力しており、天智の娘を含む多くの中央有力豪族と婚姻関係を有する実力者でした。他方、大友皇子は天智天皇の実子であって、懐風藻(現存する最古の日本漢詩集)には、亡命百済人との関わりが深く、文武の才に恵まれ、政治指導力も兼備した人物と評されています。また、大海人皇子の娘を妃とする他、中臣鎌足の娘とも婚姻関係があり、天智の臣とも接近がありました。
「家伝」によると、宴会の最中に、大海人皇子が長槍で敷板を刺し貫くという出来事があったと伝えられています。この事件は手塚治虫の火の鳥でも描写されており、耳にしたことがある人も多いのではないでしょうか。この話の背景には、天智天皇の後継ぎ問題があったのではと考えられています。こうしたなか、671年に天智天皇は死去します。病床の天智は大海人皇子に王位を譲ろうとしますが、これを大海人は奸計を警戒し、出家して吉野に隠遁することを願い出、後事は大友皇子に託すよう進言します。
当時の様子を示す文献は日本書紀が中心となりますが、壬申の乱を載せる二十八巻は672年のみを記述する異例の扱いになっています。(通常は一巻で一人ないし複数の天皇を描く)これは勝利者側である大海人皇子にとって、自己の正当性を主張するため如何に壬申の乱が重要であったかを示していると考えられます。なので、壬申紀はあくまで勝利者側に立った記録であるということを踏まえて考えなければなりません。
具体的な戦争の中身は割愛しますが、この2人の争いは大海人皇子が勝利し、673年に即位、天武天皇となります。この天武が天皇号を称した最初の君主であったと考えられています。(便宜上、全て天皇としていましたが、それまでは大王という位でした)天皇という称号には、道教的思想に傾倒していた天武が、道教の最高神の一つ「天皇大帝」から採用したという説もあります。ここでは深く触れませんが、天武の思想は別途掘り下げていく必要がありそうです。
天武天皇は即位後から、中央官人制へ、681年には律令編纂を宣言し、律令国家の成立へむけて様々な政策を行います。しかし、律令国家が成立するのは、天武天皇が死去し、(686年)持統天皇(天武の大后)が即位、そして697年に孫の文武天皇に譲位してからのことでした。ここでようやく一世紀をかけた中央主権国家の誕生です。ちなみに、その過程で689年に藤原不比等が判事に登用されており、律令貴族としての出発点ともなっています。
大変な長文となりましたが、これで大宝律令までの要所は理解できたと思います。外交国の滅亡を目の当たりにし、自国も戦争に負け、敵国の制度を学んで生まれた律令国家…。私はこの経緯にとても感銘を受けました。敵国に学ぶというのは様々な思いがあっただろうと想像できますが、当時の政治は合理的な判断がなされ進められていったのでしょう。いよいよ次回は具体的な政策について学んでいこうと思います。
2012年を振り返って
2012年も残りわずかとなりました。僕は仕事納めが12月28日で既に終わっており、後はこのエントリーで一年を総括し、新年を迎えようと思います。
お笑いと営業 慣れと工夫
当社では1分間スピーチという取り組みを行なっています。これは朝礼で定期的に順番がまわってきて、当番になればそのとき思っていることをスピーチするという単純なもの。その当番が昨日だったのですが、僕がすっかりそのことを忘れてしまっていて、なんとかアドリブでその場を乗り切りました。その適当にしたスピーチが意外にも良い感じにまとまったので、備忘録としてブログに残しておこうと思います。
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松本人志の放送室というラジオ番組はご存知でしょうか。これは知る人ぞ知る名番組で、松本人志と幼馴染で放送作家の高須光聖による2人のトークで番組が構成されています。僕はこれを昔の同僚から教えてもらい、CDを借りて聞いていたのですが、そのなかで今でも印象に残っている話があります。それは鯛めし屋の話でした。この話のなかで、(ネットに一部の書き起こしがあったのでよければ)
大将「食べている時ではなくて、食べ終わって数日してから”あれ美味しかったなあ”と思い出してもらえるようなご飯を出したいんですよ。」
松本「めっちゃわかるわあ。俺もそういう笑いをやりたいねん。」
というような件があります。(やや記憶が曖昧です)これを当時は「それはDVDも売れるはずだ」と頷きながら聞いていたのですが、今となってようやくその話の意味が理解できたような気がします。
僕にとって、お笑いの舞台というのはとても華やかなものです。スポットライトを一身に浴びて、その瞬間は学歴も年齢も関係なく、そいつが面白いかどうかの勝負。力のある芸人がそこにいるだけで場の空気が変わることもあります。…ただ、それはもしかすると一面的なもので事実とは異なるのかもしれません。
どういうことか。
例えば、営業の現場はこのように言われることがあります。会社を代表してお客様に対面し、初めは身も知らないので邪険に扱われることもあるが、プレゼンによって信頼を勝ち取り、最後には感謝をされる。そのままリピーターになって頂くこともしばしば。…これが営業の華やかな見え方です。確かにこのような例も存在しますが、多くの営業マンはそうではありません。どのお客様の前でも決まったマニュアルトークをし、同じタイミングで泣き笑い、慣れてくると契約を頂いた後でも特別に喜ぶことはありません。契約に向かってただ淡々と業務を遂行する。これもまた営業です。
僕がお笑いと営業に共通点を持ったのはこの部分なのです。僕はある芸人の舞台を見たことがあります。そこで見たネタというのは、当たり前なのですが”ネタ”ですので、おそらく違う舞台でも披露する機会があるでしょう。つまり、そこで巻き起こっている歓声や笑いは、違う舞台でも同じようなタイミングで発生している可能性が非常に高いのです。そう、まるでどのお客様にも同じマニュアルトークをする営業現場のように。
当然ながら、現場が作業化している営業マンが優秀な成績を残すことは殆んどありません。営業マン自身が仕事にやりがいを感じていることもまずないでしょう。これは業界を問わず、社会人なら誰しもに立ちはだかる”慣れ”という壁です。初めは新鮮であったことも、いつしかそれが当たり前になり感動しなくなってしまう。初めはお客様の為に一生懸命に話していた商品説明が、いつしかマニュアルトークになってしまう。対人の仕事であれば、それが成績不振に直結し、どうも仕事が面白くなくなります。
そんな営業マンに必要なのは、”売れるロジック”を理解し、創意工夫をすることです。慣れきったマニュアルトークを捨て、新しい形で仕事に挑む。そうすればかつて感じたことのない手ごたえを感じることが出来るでしょう。それは個人の体感としても、相手の反応にしても、仕事の成果にしてもです。決して変わることのない人間の購買意欲を追求し、そのなかで出来る限りの創意工夫をこらす。これが”慣れ”の壁を突破する方法であり、一つ上の段階に進む第一歩です。
僕はこのようなことを営業という仕事を通じて経験することができました。また、おそらくこれはお笑いの世界でも同じなのだと思います。笑いのロジックを追及し、自身の”笑い”で勝負をする。一つのネタに固執する芸人で生き残った人を僕は知りません。やりたい笑いを表現するために創意工夫を惜しまない…やはり長く活躍しているのはそんな人ばかりです。
だからこそ、僕は松本人志の言う「数日してから”あれ面白かったなあ”と言わせる笑い」に感銘を受けました。そんなことをやろうとしていたのかと。そして、その為に創意工夫を徹底する松本人志にプロフェッショナルを感じました。
…僕も同じ社会で働く1人として、そうありたいものです。
選挙だ、投票に行け、と言いますが…
※考える人ならぬ、考える少年。(岡山県・吹屋小学校)
いよいよ衆議院総選挙ですね。投開票が12月16日なので、日数にすれば残り10日ほどしかありません。もう投票先は決まりましたか?…私のTwitterのタイムラインでは話題が政治に染まっています。政策議論をしている人、情報収集しシェアしている人、投票を促している人、など様々です。そのなかで、特に20代へ向けての言葉として「とりあえず投票に行きなさい。そうすれば若い人の声が取り入れられるようになるから…」という言論をよく目にします。
いや確かに、仰る通りなのですがね。そんな簡単に”投票に行け”と言われても困ります。…はっきり言えば「今の選挙に興味が持てない」というのが私の本音です。
私の政治に対する関心は、同世代の中で平均値ぐらいだと思います。 低くもないが高くもない。そんな私ですが、例えば今回の選挙の論点である”原発”について考えると、頭の中はこんな感じになります。
「原発は2020年までになくす、いや2030年までになくす。ちょっと待て、その場合の電気代はどうなるのか?上がったとして日本経済への影響は?再生エネルギーはどこまで実用化される?…いやちょっと待て、今の統治機構で原発を本当に止められるのか?ってかその前に、そのマニフェスト本当に実行する気ある?そもそも実行可能な内容なの?…原発なくすにしても、放射性廃棄物の処理はしないといけないし、日本の原発を0にしても世界中に原発はあるしなあ。それなのに原発廃止とか銘打って、最終処理場の決定や技術者の育成は大丈夫なの?」
みたいな。まあ難しいですよね。原発の是非だけでなく、統治や政党の問題まで絡んできています。もちろん他にも論点はありますが、それぞれの党の具体的な政策はWEB上で公開されています。
もうね、無理じゃないですか。とりあえず量が多すぎです。 これを全部読んだという人はもはや暇人でしょう。さらに政策を吟味して様々な角度から検証していかないと本当のところはわかりません。ただ、私にはそこまで出来ません。”そこまでコミットする価値がこの一票にあるのか?”…これも私の本音です。
ネットで情報収集して、デマに気をつけて、ソーシャルメディアで議論して、マスコミの悪口言いながらTV見て、よくも知らない親戚の○○党へ入れてね!お願いを流しながら、なんとなくで投票する。
こんな感じが今の投票ではないでしょうか。ある程度の関心がある私でさえ、このような状態なので、あまり興味のない人は「めんどくさい」となってしまうのが当たり前だと思います。もっとカジュアルに政治参加できるような世の中になって欲しい。”政(まつりごと)”の字のごとく、もっと盛り上がるような雰囲気になって欲しい。そんなことをよく考えます。
私なりの結論は、「”情報の在り方”と”政治の仕組み”が変わって欲しい。」これが第一です。原発の是非やTPPの問題は私の頭ではよくわかりません。だからこそ、頭の良い人に一票を託して代わりに政治をお願いする訳で、どの人が本当に実行してくれるのか?のような観点もふまえて、投票する相手を選びたくありません。
もっとシンプルに情報が共有されて、一票の重みが実感できる、そのような形になって、私を含めたもっと多くの人が政治に興味が持てるようになって欲しいと思います。
今の正直な気持ちは「白票」です。この状況下で責任持って応援できる党が私には判断できません。ただ、票は入れませんがお金なら出します。特に政治メディアに関心があって、既に小口ながら応援しています。他にも気になるメディアがあったので調べてみるつもりです。選挙そのものでなく、それを囲むメディアを応援する…これが私にできる限界のコミットなのかもしれません。
マンガ欲しい人いませんか?
※序文に特に意味はありません。所有しているマンガを売ろうと考えているので、ご興味がある人は後述のリストをご参照ください。
突然ですが……学生の頃の僕の夢は、マンガ喫茶・雀荘・ジョイフルが入ったレジャービルを経営することでした。そして、マンガ喫茶には全て自前のマンガを置くことで、自分と趣味の合うお客さんに来店してもらい、死ぬまで麻雀を打ち、腹が減ったらジョイフルへ行く(※岡山県のファミレスはジョイフルが主流)。こんな施設があれば最高だなと、純粋な気持ちで夢を描いていました。また、夢を実現するために実際にマンガを集めてきました。
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しかし、どうやらそんな夢が終わりを告げようとしています。日本の出版業界は紙の本を守ろうとしておりますが、おそらくそれも長い時間はもたないでしょう。近い将来にマンガは電子出版が主流になると考えられます。そう、僕が長年思い続けてきた夢はAmazonよって打ち砕かれようとしているのです。
そうとなれば、大量にあるマンガを保管し続ける意味もそこまでありません。そこで、自炊(=デジタル化)をしようと思ったのですが、裁断することにどうしても気がひけてしまい、それならいっそ僕と同じようなマンガが好きな人に安価でお譲りしようかなと考え始めました。
以下、僕が持っている漫画のリストです。状態は悪くありません。もし興味のある方は tokiwatakuya at gmail.com までご連絡を頂けますと幸いです。
<全巻セット>
I's
湘南純愛組 (完全版と単行本)
DEARBOYS
DEARBOYS Act2
今日から俺は(完全版)
タッチ
ラフ
H2(完全版)
サラリーマン金太郎 マネーウォーズ編
ARMS
火の鳥(文庫版)
マグマ大使(文庫版)
ヒットラーに告ぐ(文庫版)
<連載中(最新刊まで)>
DEARBOYS Act3
800冊弱ぐらいでしょうか。金額は5万円程度+送料のご負担でお願い出来ればと思います。年末休暇のお供に私のマンガを是非ご活用くださいませ。また、もし宜しければ僕が使用していたカラーボックスを無料でお譲りいたします。
興味のある方は tokiwatakuya at gmail.com までご連絡をお願いします。
飛鳥時代の政治と蘇我氏
一ヶ月間、蘇我氏について学習を重ねてきました。私は、前回の歴史に関わるエントリーで下記のように学習テーマを定めています。
”ちなみに、当面の私の学習テーマは飛鳥時代の蘇我氏についてです。日本に伝存する最古の正史と言われるのが日本書紀ですが、その編纂をしたのが藤原不比等という人物です。蘇我氏の本宋家を滅ぼし、大化の改新をおこした中臣鎌足の息子にあたるので、日本書紀では蘇我氏について正しく評価されていないのではないかという見方があります。私は蘇我氏について研究し、蘇我馬子・蝦夷・入鹿が国家に対してどのような考えを持っていたのか?に迫るつもりでいます。”
このエントリーでは飛鳥時代の政治について蘇我氏を視点にまとめていこうと思います。(おそらく長文になります。時間があって歴史に興味がある人は一読を頂ければ幸いです。)
さて、私の率直な感想としては、飛鳥時代は日本の文化が大きく発達した時代であり、蘇我氏が意図していない部分があったにしても、その貢献は計り知れないものであると感じました。当時の時代背景を含めつつ、蘇我氏のなかでも蘇我馬子と蘇我入鹿に着目して、その理由を記述していきたいと思います。
- 蘇我氏の台頭
蘇我氏の系図は、日本書紀などを元に復元すると「武内宿禰→蘇我石川宿禰→満智→韓子→高麗(馬背)→稲目→馬子→蝦夷→入鹿」となっています。ここであえて“なっている”という表現を使うのは「稲目」以前の系譜を正確に掴むことは今となってはほぼ不可能だからです。それについては、「大化の改新によって蘇我入鹿に代わって蘇我石川麻呂が蘇我氏の嫡流とされた時、彼らは稲目より前の系譜を否定し、石川麻呂の一家が他の豪族と対応に扱われるような系図を作ったのではないか?」という学説が有力です。しかし、私は蘇我氏の出自ではなく、「何をしたのか?」もしくは、「何をしようしていたのか?」に注目をしていきたいので、出自には様々な説がありますがここでは割愛します。
蘇我稲目は実在していたと考えて良いと思いますが、彼は欽明天皇のもとで朝廷の財政の整備や交通路の開発に従事していました。その職務を通じて渡来系の豪族とのつながりを深めていったのですが、当時はまだ軍事がもっとも重んじられる状況にあり、稲目の仕事は「裏方としての働き」程度にしか見られなかったといいます。また、蘇我稲目は仏教の推進を行ないますが、これに当時の有力な豪族であった物部氏は「日本には従来の神々がおり、他の神を信仰する訳にはいかない」と反対します。この争いの決着はつかず、蘇我馬子の代に引き継がれていくのですが、次の世代になると徐々に世の中の価値観が変わってきます。例えば、日本書紀にはこのような話があります。
「高句麗から国書が届き、大王は大臣にそれを読み解くよう命じた。そこで大臣は史と呼ばれる宮廷の書記を集めたが、みんながそれを扱いかねていた。そうして3日が経過してしまった。そこに、新たに史に起用されていた王辰爾(馬子の配下)がすすみ出て「私が国書を読んでみせましょう」と言った。代々朝廷に仕えていた先輩の史はそれを冷ややかに見ていたが、王辰爾はそれを見事読んでみせた。大王はそれを見て、多くの史に「お前たちは、数は多いが、誰一人として王辰爾より優るものがいない」と叱った」
この蘇我馬子の配下である王辰爾が国書を読んだことは、蘇我氏の宮廷での評判を高めることになったことでしょう。また、この話に物部氏が出てこない点にも注目しておきたいです。これは当時の宮廷で渡来人とのつながりがない物部氏(軍事を担当していた)の後退を示していると考えられると日本史学者の武光誠は述べています。彼らは外交などの新たな知識が必要な政務には不向きだと思われはじめていたのです。
また、当時の時代背景として、朝鮮半島(高句麗、百済、新羅)は文明が進んでおり、日本に様々な技術を伝えたとされています。そのなかで仏教徒を名乗ることは大陸の新知識に通じた人物だということと同意義でありました。こうした背景をふりかえると蘇我氏が力をつけていった様子がよくわかります。
- 激しい政治抗争
蘇我氏について悪い印象を持っている人が多いのは、激しい政治抗争を繰り広げたからでしょう。 たしかに蘇我氏は対立していた物部氏を滅ぼし、穴穂部皇子・崇峻天皇の暗殺や、山背大兄王を自殺に追い込む等を行なったとされています。ここで一つ一つの事件を解説していくと大変な長文となってしまうので割愛させて頂きますが、あえて一言だけ付け加えるのであれば、蘇我氏が政権を支配したことによって朝廷が安定した側面も間違いなくあったと思います。それによって政治が進み、日本の文化が発達していったのです。
- 蘇我馬子と政治
蘇我氏が政権を支配したのは、用明天皇が亡くなり、物部氏が次期天皇に推していた穴穂部皇子を暗殺、そして物部氏に攻め入り、討ち滅ぼしたときとして問題ないでしょう。次の天皇は、崇峻天皇(欽明天皇と蘇我小姉君との息子、つまり馬子の親戚)となり、ここから蘇我馬子が実権を握ります。これが587年のことです。さて、これから一体どのような政治が行なわれていったのでしょうか。
1.新羅遠征
崇峻朝では、任那回復のため新羅遠征を行ないます。(任那の説明もしたいところですが、長くなりますのでwikipediaを参照ください。)そのなかで、隋が589年に南朝の陳を倒して中国に統一国家を誕生させます。この情報は外交のあった百済から日本に伝わっていたことでしょう。隋によって朝鮮半島は大きな動乱に巻き込まれていきますが、日本が任那回復から手を引くのは602年のことです。592年には崇峻天皇の暗殺事件が起こりますが、朝廷から「内の乱れに依って外の事を怠るな」と戒めがあったと言われています。そうまでしてこだわった任那回復ですが、“軍を日本に引き返せば、新羅に攻め込まれ”を繰り返し、失敗に終わってしまいます。この任那から手を引いた翌年の603年から朝廷の体制を改革する動きが始まります。
当時の朝廷は推古朝、日本で初めての女帝である推古天皇、摂政に廐戸皇子(便宜上、以下聖徳太子)、大臣に蘇我馬子の体制で政治が行なわれていました。推古朝の政治は、聖徳太子が行なったものか、蘇我馬子と共同で行なったものかは学者の間でも意見が分かれているところですが、日本書紀には主要な政治は共同執政をしていたような書き方がされています。例えば、仏教の興隆では「皇太子及び大臣に詔して三宝を興隆せしむ」、新羅遠征では「皇太子、蘇我大臣を召して詔して曰く云々」、神祇の祭祀では「皇太子、大臣、百寮を率て神祇を祭ひ拝む」などです。いずれにせよ、政権を安定させ、聖徳太子が政治を行なえる状態を作ったことは蘇我氏の最大の働きであったのではないでしょうか。
2.冠位十二階
603年、官人の秩序と威儀の創出を目的として冠位十二階が定められます。これは大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大儀・小儀・大智・小智の十二階からなる位階です。この名称は、儒教の最高の得目である徳をはじめにおき、人が行なうべき道である仁・礼・信・儀・智を加えたものです。この時代では儒教が政治に取り入られるようになりました。冠位十二階を考えるときは、それまでの氏姓制度との比較が有効です。(氏姓制度についてはwikipediaを参照)
冠位十二階は今までにあった族制的なものとは違い、個人に冠位を与える制度です。同一の氏でも王権への忠誠・貢献度によって違った冠位が定められ、功労が認められれば上の冠位を得ることができます。例えば、遣隋使の使者であった小野妹子は大礼でしたが、二度の使節による功労が認められ、後に大徳となっています。また、身分の低い姓であっても高い冠位を得ることは可能になっており、飛鳥寺の本尊をつくった鞍作首鳥(首が姓で、大連や大臣に比べると地位が低い)は大礼の冠位が与えられています。それまでにあった族制的な秩序は引き続き重んじられていくのですが、朝廷は個人の功労による秩序を推進していた様子がよくわかります。ただ、これらは畿内の豪族や朝廷関係者を中心に運用されており、地方豪族までは及んでいなかったといいます。
また、冠位十二階は対外的なところも見据えて行なわれていました。推古朝では、これまでの外交方針を大幅に変更し、607年から隋と外交を結ぼうとする動きが始まります。既に隋と外交をしていた朝鮮三国は、使節はみな官位を用いて、冠服に威儀を正して宮廷に訪れていたといます。日本も隋との外交を行なうには、それにふさわしい威儀を整える必要があったということでしょう。
この憲法で言う“国家”は「君」と「臣」と「民」から構成されています。君は天皇を、臣は官人を、民は人民を指しています。各文は臣に対して、国家の臣僚としておこなうべき道徳と従うべき規律を定めており、その思想には儒教が大きく影響しています。仏教は儒教的な道徳の実践のために帰依が必要であるとしたもので、天皇の尊厳を大前提とした儒教的国家論だと解釈できます。また、法家の考えも組み込まれており、それは「十一に曰わく、功過を明らかに察して、賞罰必ず当てよ」にみえる信賞必罰や、「十五に曰わく、私に背きて公に向うは、これ臣の道なり」の公私の別などに表れています。
十七条の憲法は天皇の絶対的尊厳を説くにあたって「君をば則ち天とし、臣をば則ち地とす。天覆い地載せて四時順行し、万気通うことを得。地、天を覆わんと欲するときは、則ち壊るることを致さむのみ」と、君・臣を天・地の関係をもって説きます。これを歴史学者である井上光貞は下記のように解釈しています。
「ここで不審なのは天皇の尊厳を神祇信仰や神話体系で説かなかったのかということである。思いあたるのは、600年度の遣隋使に対する隋文帝の言葉である。文帝は日本の使者が自国の国王観を神話体系にのっとって天と日をもって説いたとき、「義理なし」といい、「訓えてこれを改めさせた」。憲法が「君権」を中国の天覆地載の理もって基礎づけたのは、神話体系のような「日本的仕方」では、中国に通用しないことを隋帝によって知らされた結果ではなかろうか。憲法成立の背景にもまた、隋との接触のもたらした価値の転換、礼にもとづいて国家の威厳を正そうとする、時代の雰囲気が感じられる。」
私はこの解釈にとても同意できるのですが、実は十七条の憲法が推古朝より後に作られたのではないかと考える学者がいます。その論点は、第十二条の「十二に曰わく、国司国造、百姓に斂めとることなかれ」の国司が推古朝では存在しないのではないかという点、十七条の憲法そのものが官人制を前提として法が説かれているのは、官僚的な国家は律令後に誕生する為、おかしいのではないかという点です。
ここは学者のさらなる研究が必要な部分ですが、このエントリーでは推古朝で作られたという前提で進めていきたいと思います。
4.遣隋使
607年、小野妹子を使節とした遣隋使が送られます。隋では仏教がおおいに栄えており、本格的な仏教の文化と学問をおこそうとする朝廷は、中国仏教摂取を名目に隋との正式な国交を開こうとします。「隋書」によれば、そのときの国書が、あの有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子にいたす、恙無しや云々」というものです。“日出ずる”と“日没する”という文言に、国の優劣をつけるような意味があったかは学者でも意見が別れるところですが、「書を~いたす」「恙無しや云々」というような対等な立場を表すような言葉に不快を覚えたことは間違いないでしょう。隋書にはその続きに「帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」」と記されています。しかし、当時の隋は高句麗征討を控えており、日本を無視できない状態に置かれていました。隋の帝王は国書を見て怒ったものの、翌年には使節を日本におくって宣諭することになります。
その隋からの使節が帰る際に、多くの人間が留学生としてともに隋へ渡ります。この留学生らが後の大化の改新に大きく影響を及ぼす存在になります。
ちなみに、この使節が帰るときに持たした国書に初めて「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す…」という“天皇”の文言が使われます。(もっとも、日本書記の編纂で書きかえられた疑いもありますが…)
本エントリーのテーマである ”国家に対してどのような考えを持っていたのか?” に関して言えば、蘇我馬子は”国家”という考えは持ち合わせていなかったのではないでしょうか。当時の価値観は一族の繁栄が重要であり、どうすれば蘇我氏が栄えるのか?という視点から彼は行動をしていたのだと思います。その表れが仏教推進であり、政治抗争であり、新羅遠征です。例えば、新羅遠征は懸案事項であった任那回復を蘇我馬子の代で達成すれば、蘇我氏の力を強く誇示できるという点からあのような強行がなされたのだと私は感じました。”国として” ではなく、”一族として” の発想なのです。ただ、蘇我馬子の一族を繁栄させる為の動きが、政権を安定させ、国家としての文化を作っていくことになります。政治を行なえる基盤を作った蘇我馬子の働きは評価できるものではないでしょうか。しかし、”結果として” であることは否めません…。やはり飛鳥時代の一番の功労者となれは聖徳太子でしょう。外交方針をあらためて隋と対等に外交をすることで朝廷の対外的な評価を高めようとしたこと、その為の政策を実行したこと、等これらを考えると、別格の人物であったことが想像できます。
~蘇我入鹿の時代背景を振り返るつもりでしたが、不運な事故によりデータが失われました…onz 気力が高まれば書き直します~
※まとめの辺りを再筆しました。
”国家に対してどのような考えを持っていたのか?” に関しては、蘇我馬子とは違い、国家へのビジョンを持っていたのではないかと私は感じています。蘇我入鹿は唐から帰国した旻が開いた私塾で、「旻法師…大臣(鎌足)に語りて曰く、吾堂に入る者、宗我大郎(入鹿)に如くものなし」と、旻から「一番優秀である」と評されています。もっと言えば、これは入鹿を暗殺した中臣鎌足の子孫である藤原氏の歴史書(藤氏家伝)に記されており、中臣鎌足を肯定したい藤原氏も、蘇我入鹿の優秀さは否定できなかったと考えることができます。
当時の国際情勢は非常に緊迫していました。642年に高句麗は反唐派の淵蓋蘇文がクーデータを起こし国家体制を改め、その後644年には唐が高句麗へ出兵します。蘇我入鹿はこうした国際情勢を察知し、日本の軍備体制を整えるため中央主権の政治を行なおうと考えたのではないでしょうか。その手段が ”独裁” であったのだと思います。結果として、中央主権を目指すのは当時の流れであったものの、天皇でなく重臣が実権を握る蘇我氏の独裁の体制が反感を買い、乙巳の変で暗殺されてしまいます。日本書記には蘇我入鹿の独裁の様子が多々記されていますが、政策が合わずに対立側から排除されてしまっただけなのだと私は思います。
- まとめ
私は初めて歴史の勉強をしているのですが、今回の学習から大事なことは ”比較” であると感じました。正直に言えば、この学習は飛鳥時代の知識を得ただけで、何か新しい気づきがあったわけではありません。しかし、この知識を元に、飛鳥時代と平安時代ではどう政治が変わっているのか?、鎌倉時代に受け継がれているのはどの部分か?、など様々な角度から比較をし、その理由を深く考えることで、現代に起きる事柄の見え方が変わってくるのではないかと感じています。
国家とは不思議なものです。生まれたときからそこに存在し、その上で私たちは生活をしているのに、普通にしていると実態を掴むことが出来ません。こうして歴史を勉強していくなかで、未来に繋がる国家や政治の考え方を見つけていきたいと思います。
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