飛鳥時代の政治と蘇我氏

一ヶ月間、蘇我氏について学習を重ねてきました。私は、前回の歴史に関わるエントリーで下記のように学習テーマを定めています。

 

”ちなみに、当面の私の学習テーマは飛鳥時代蘇我氏についてです。日本に伝存する最古の正史と言われるのが日本書紀ですが、その編纂をしたのが藤原不比等という人物です。蘇我氏の本宋家を滅ぼし、大化の改新をおこした中臣鎌足の息子にあたるので、日本書紀では蘇我氏について正しく評価されていないのではないかという見方があります。私は蘇我氏について研究し、蘇我馬子蝦夷・入鹿が国家に対してどのような考えを持っていたのか?に迫るつもりでいます。”

 

このエントリーでは飛鳥時代の政治について蘇我氏を視点にまとめていこうと思います。(おそらく長文になります。時間があって歴史に興味がある人は一読を頂ければ幸いです。)

 

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飛鳥寺の中庭、蘇我馬子が建てた日本最古のお寺

 

さて、私の率直な感想としては、飛鳥時代は日本の文化が大きく発達した時代であり、蘇我氏が意図していない部分があったにしても、その貢献は計り知れないものであると感じました。当時の時代背景を含めつつ、蘇我氏のなかでも蘇我馬子蘇我入鹿に着目して、その理由を記述していきたいと思います。

 

蘇我氏系図は、日本書紀などを元に復元すると「武内宿禰蘇我石川宿禰→満智→韓子→高麗(馬背)→稲目→馬子→蝦夷→入鹿」となっています。ここであえて“なっている”という表現を使うのは「稲目」以前の系譜を正確に掴むことは今となってはほぼ不可能だからです。それについては、「大化の改新によって蘇我入鹿に代わって蘇我石川麻呂蘇我氏嫡流とされた時、彼らは稲目より前の系譜を否定し、石川麻呂の一家が他の豪族と対応に扱われるような系図を作ったのではないか?」という学説が有力です。しかし、私は蘇我氏の出自ではなく、「何をしたのか?」もしくは、「何をしようしていたのか?」に注目をしていきたいので、出自には様々な説がありますがここでは割愛します。

 

蘇我稲目は実在していたと考えて良いと思いますが、彼は欽明天皇のもとで朝廷の財政の整備や交通路の開発に従事していました。その職務を通じて渡来系の豪族とのつながりを深めていったのですが、当時はまだ軍事がもっとも重んじられる状況にあり、稲目の仕事は「裏方としての働き」程度にしか見られなかったといいます。また、蘇我稲目は仏教の推進を行ないますが、これに当時の有力な豪族であった物部氏は「日本には従来の神々がおり、他の神を信仰する訳にはいかない」と反対します。この争いの決着はつかず、蘇我馬子の代に引き継がれていくのですが、次の世代になると徐々に世の中の価値観が変わってきます。例えば、日本書紀にはこのような話があります。


高句麗から国書が届き、大王は大臣にそれを読み解くよう命じた。そこで大臣は史と呼ばれる宮廷の書記を集めたが、みんながそれを扱いかねていた。そうして3日が経過してしまった。そこに、新たに史に起用されていた王辰爾(馬子の配下)がすすみ出て「私が国書を読んでみせましょう」と言った。代々朝廷に仕えていた先輩の史はそれを冷ややかに見ていたが、王辰爾はそれを見事読んでみせた。大王はそれを見て、多くの史に「お前たちは、数は多いが、誰一人として王辰爾より優るものがいない」と叱った」

この蘇我馬子の配下である王辰爾が国書を読んだことは、蘇我氏の宮廷での評判を高めることになったことでしょう。また、この話に物部氏が出てこない点にも注目しておきたいです。これは当時の宮廷で渡来人とのつながりがない物部氏(軍事を担当していた)の後退を示していると考えられると日本史学者の武光誠は述べています。彼らは外交などの新たな知識が必要な政務には不向きだと思われはじめていたのです。

また、当時の時代背景として、朝鮮半島高句麗百済新羅)は文明が進んでおり、日本に様々な技術を伝えたとされています。そのなかで仏教徒を名乗ることは大陸の新知識に通じた人物だということと同意義でありました。こうした背景をふりかえると蘇我氏が力をつけていった様子がよくわかります。

 

  • 激しい政治抗争

蘇我氏について悪い印象を持っている人が多いのは、激しい政治抗争を繰り広げたからでしょう。 たしかに蘇我氏は対立していた物部氏を滅ぼし、穴穂部皇子崇峻天皇の暗殺や、山背大兄王を自殺に追い込む等を行なったとされています。ここで一つ一つの事件を解説していくと大変な長文となってしまうので割愛させて頂きますが、あえて一言だけ付け加えるのであれば、蘇我氏が政権を支配したことによって朝廷が安定した側面も間違いなくあったと思います。それによって政治が進み、日本の文化が発達していったのです。

 

 蘇我氏が政権を支配したのは、用明天皇が亡くなり、物部氏が次期天皇に推していた穴穂部皇子を暗殺、そして物部氏に攻め入り、討ち滅ぼしたときとして問題ないでしょう。次の天皇は、崇峻天皇欽明天皇蘇我小姉君との息子、つまり馬子の親戚)となり、ここから蘇我馬子が実権を握ります。これが587年のことです。さて、これから一体どのような政治が行なわれていったのでしょうか。

 

1.新羅遠征

 崇峻朝では、任那回復のため新羅遠征を行ないます。(任那の説明もしたいところですが、長くなりますのでwikipediaを参照ください。)そのなかで、隋が589年に南朝の陳を倒して中国に統一国家を誕生させます。この情報は外交のあった百済から日本に伝わっていたことでしょう。隋によって朝鮮半島は大きな動乱に巻き込まれていきますが、日本が任那回復から手を引くのは602年のことです。592年には崇峻天皇の暗殺事件が起こりますが、朝廷から「内の乱れに依って外の事を怠るな」と戒めがあったと言われています。そうまでしてこだわった任那回復ですが、“軍を日本に引き返せば、新羅に攻め込まれ”を繰り返し、失敗に終わってしまいます。この任那から手を引いた翌年の603年から朝廷の体制を改革する動きが始まります。

 

当時の朝廷は推古朝、日本で初めての女帝である推古天皇摂政に廐戸皇子(便宜上、以下聖徳太子)、大臣に蘇我馬子の体制で政治が行なわれていました。推古朝の政治は、聖徳太子が行なったものか、蘇我馬子と共同で行なったものかは学者の間でも意見が分かれているところですが、日本書紀には主要な政治は共同執政をしていたような書き方がされています。例えば、仏教の興隆では「皇太子及び大臣に詔して三宝を興隆せしむ」、新羅遠征では「皇太子、蘇我大臣を召して詔して曰く云々」、神祇の祭祀では「皇太子、大臣、百寮を率て神祇を祭ひ拝む」などです。いずれにせよ、政権を安定させ、聖徳太子が政治を行なえる状態を作ったことは蘇我氏の最大の働きであったのではないでしょうか。


 2.冠位十二階

603年、官人の秩序と威儀の創出を目的として冠位十二階が定められます。これは大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大儀・小儀・大智・小智の十二階からなる位階です。この名称は、儒教の最高の得目である徳をはじめにおき、人が行なうべき道である仁・礼・信・儀・智を加えたものです。この時代では儒教が政治に取り入られるようになりました。冠位十二階を考えるときは、それまでの氏姓制度との比較が有効です。(氏姓制度についてはwikipediaを参照)

冠位十二階は今までにあった族制的なものとは違い、個人に冠位を与える制度です。同一の氏でも王権への忠誠・貢献度によって違った冠位が定められ、功労が認められれば上の冠位を得ることができます。例えば、遣隋使の使者であった小野妹子は大礼でしたが、二度の使節による功労が認められ、後に大徳となっています。また、身分の低い姓であっても高い冠位を得ることは可能になっており、飛鳥寺の本尊をつくった鞍作首鳥(首が姓で、大連や大臣に比べると地位が低い)は大礼の冠位が与えられています。それまでにあった族制的な秩序は引き続き重んじられていくのですが、朝廷は個人の功労による秩序を推進していた様子がよくわかります。ただ、これらは畿内の豪族や朝廷関係者を中心に運用されており、地方豪族までは及んでいなかったといいます。
また、冠位十二階は対外的なところも見据えて行なわれていました。推古朝では、これまでの外交方針を大幅に変更し、607年から隋と外交を結ぼうとする動きが始まります。既に隋と外交をしていた朝鮮三国は、使節はみな官位を用いて、冠服に威儀を正して宮廷に訪れていたといます。日本も隋との外交を行なうには、それにふさわしい威儀を整える必要があったということでしょう。

 

3.十七条の憲法 (各文はwikipediaを参照)

 この憲法で言う“国家”は「君」と「臣」と「民」から構成されています。君は天皇を、臣は官人を、民は人民を指しています。各文は臣に対して、国家の臣僚としておこなうべき道徳と従うべき規律を定めており、その思想には儒教が大きく影響しています。仏教は儒教的な道徳の実践のために帰依が必要であるとしたもので、天皇の尊厳を大前提とした儒教的国家論だと解釈できます。また、法家の考えも組み込まれており、それは「十一に曰わく、功過を明らかに察して、賞罰必ず当てよ」にみえる信賞必罰や、「十五に曰わく、私に背きて公に向うは、これ臣の道なり」の公私の別などに表れています。
十七条の憲法天皇の絶対的尊厳を説くにあたって「君をば則ち天とし、臣をば則ち地とす。天覆い地載せて四時順行し、万気通うことを得。地、天を覆わんと欲するときは、則ち壊るることを致さむのみ」と、君・臣を天・地の関係をもって説きます。これを歴史学者である井上光貞は下記のように解釈しています。

「ここで不審なのは天皇の尊厳を神祇信仰や神話体系で説かなかったのかということである。思いあたるのは、600年度の遣隋使に対する隋文帝の言葉である。文帝は日本の使者が自国の国王観を神話体系にのっとって天と日をもって説いたとき、「義理なし」といい、「訓えてこれを改めさせた」。憲法が「君権」を中国の天覆地載の理もって基礎づけたのは、神話体系のような「日本的仕方」では、中国に通用しないことを隋帝によって知らされた結果ではなかろうか。憲法成立の背景にもまた、隋との接触のもたらした価値の転換、礼にもとづいて国家の威厳を正そうとする、時代の雰囲気が感じられる。」

私はこの解釈にとても同意できるのですが、実は十七条の憲法が推古朝より後に作られたのではないかと考える学者がいます。その論点は、第十二条の「十二に曰わく、国司国造、百姓に斂めとることなかれ」の国司が推古朝では存在しないのではないかという点、十七条の憲法そのものが官人制を前提として法が説かれているのは、官僚的な国家は律令後に誕生する為、おかしいのではないかという点です。

ここは学者のさらなる研究が必要な部分ですが、このエントリーでは推古朝で作られたという前提で進めていきたいと思います。

 

4.遣隋使

 607年、小野妹子使節とした遣隋使が送られます。隋では仏教がおおいに栄えており、本格的な仏教の文化と学問をおこそうとする朝廷は、中国仏教摂取を名目に隋との正式な国交を開こうとします。「隋書」によれば、そのときの国書が、あの有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子にいたす、恙無しや云々」というものです。“日出ずる”と“日没する”という文言に、国の優劣をつけるような意味があったかは学者でも意見が別れるところですが、「書を~いたす」「恙無しや云々」というような対等な立場を表すような言葉に不快を覚えたことは間違いないでしょう。隋書にはその続きに「帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」」と記されています。しかし、当時の隋は高句麗征討を控えており、日本を無視できない状態に置かれていました。隋の帝王は国書を見て怒ったものの、翌年には使節を日本におくって宣諭することになります。
その隋からの使節が帰る際に、多くの人間が留学生としてともに隋へ渡ります。この留学生らが後の大化の改新に大きく影響を及ぼす存在になります。

ちなみに、この使節が帰るときに持たした国書に初めて「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す…」という“天皇”の文言が使われます。(もっとも、日本書記の編纂で書きかえられた疑いもありますが…)

 

本エントリーのテーマである ”国家に対してどのような考えを持っていたのか?” に関して言えば、蘇我馬子は”国家”という考えは持ち合わせていなかったのではないでしょうか。当時の価値観は一族の繁栄が重要であり、どうすれば蘇我氏が栄えるのか?という視点から彼は行動をしていたのだと思います。その表れが仏教推進であり、政治抗争であり、新羅遠征です。例えば、新羅遠征は懸案事項であった任那回復を蘇我馬子の代で達成すれば、蘇我氏の力を強く誇示できるという点からあのような強行がなされたのだと私は感じました。”国として” ではなく、”一族として” の発想なのです。ただ、蘇我馬子の一族を繁栄させる為の動きが、政権を安定させ、国家としての文化を作っていくことになります。政治を行なえる基盤を作った蘇我馬子の働きは評価できるものではないでしょうか。しかし、”結果として” であることは否めません…。やはり飛鳥時代の一番の功労者となれは聖徳太子でしょう。外交方針をあらためて隋と対等に外交をすることで朝廷の対外的な評価を高めようとしたこと、その為の政策を実行したこと、等これらを考えると、別格の人物であったことが想像できます。

 

蘇我入鹿の時代背景を振り返るつもりでしたが、不運な事故によりデータが失われました…onz 気力が高まれば書き直します~

※まとめの辺りを再筆しました。

 

  ”国家に対してどのような考えを持っていたのか?” に関しては、蘇我馬子とは違い、国家へのビジョンを持っていたのではないかと私は感じています。蘇我入鹿は唐から帰国した旻が開いた私塾で、「旻法師…大臣(鎌足)に語りて曰く、吾堂に入る者、宗我大郎(入鹿)に如くものなし」と、旻から「一番優秀である」と評されています。もっと言えば、これは入鹿を暗殺した中臣鎌足の子孫である藤原氏の歴史書(藤氏家伝)に記されており、中臣鎌足を肯定したい藤原氏も、蘇我入鹿の優秀さは否定できなかったと考えることができます。

当時の国際情勢は非常に緊迫していました。642年に高句麗は反唐派の淵蓋蘇文がクーデータを起こし国家体制を改め、その後644年には唐が高句麗へ出兵します。蘇我入鹿はこうした国際情勢を察知し、日本の軍備体制を整えるため中央主権の政治を行なおうと考えたのではないでしょうか。その手段が ”独裁” であったのだと思います。結果として、中央主権を目指すのは当時の流れであったものの、天皇でなく重臣が実権を握る蘇我氏の独裁の体制が反感を買い、乙巳の変で暗殺されてしまいます。日本書記には蘇我入鹿の独裁の様子が多々記されていますが、政策が合わずに対立側から排除されてしまっただけなのだと私は思います。

 

  • まとめ

私は初めて歴史の勉強をしているのですが、今回の学習から大事なことは ”比較” であると感じました。正直に言えば、この学習は飛鳥時代の知識を得ただけで、何か新しい気づきがあったわけではありません。しかし、この知識を元に、飛鳥時代平安時代ではどう政治が変わっているのか?、鎌倉時代に受け継がれているのはどの部分か?、など様々な角度から比較をし、その理由を深く考えることで、現代に起きる事柄の見え方が変わってくるのではないかと感じています。

国家とは不思議なものです。生まれたときからそこに存在し、その上で私たちは生活をしているのに、普通にしていると実態を掴むことが出来ません。こうして歴史を勉強していくなかで、未来に繋がる国家や政治の考え方を見つけていきたいと思います。

 

次回は大化の改新後に始まる律令について学んでいきます。

参考文献

日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)

日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)

日本書紀(下)全現代語訳 (講談社学術文庫)

日本書紀(下)全現代語訳 (講談社学術文庫)

蘇我氏三代

蘇我氏三代

飛鳥の朝廷 (講談社学術文庫)

飛鳥の朝廷 (講談社学術文庫)