天智天皇の史跡
天智天皇は、大化の改新を起こした中大兄皇子としては一般的に知られていますが、即位後に行う政治についてはあまり認知されていません。その政治の舞台となった滋賀の大津宮跡や崇福寺跡、京都の天智天皇陵をフィールドワークしてきたので、当日の様子を紹介します。
まず訪れたのは大津宮錦織跡です。写真は第å八地点のものですが、内裏(古代都城の宮城における天皇の私的区域のこと)南門の一部が存在するものと考えられており、まさに大津宮中枢の入口にあたる重要な場所とのことでした。
こちらは発掘場所。
なんとこれだけ住居に隣接しています。子供が発掘場所で遊んでいそうな雰囲気でした…。
下のピンが大津宮跡の第八地点である内裏があったと考えられている場所で、上のピンが崇福寺跡のある場所です。崇福寺とは天智天皇が大津京の鎮護のために建立したものです。当日は歩いて移動したのですが時間は40分程でしたでしょうか。大津宮の広さを肌で感じることができました。
道中に天智天皇が祀られている近江神宮があります。神社としての歴史は比較的浅く昭和15年に建てられたものです。また、天智天皇が水時計を造り時報を行ったことから、境内に時計館宝物館が設けられていました。(あまり興味がなかったので見学しませんでしたが…)
崇福寺は山中にあり、道もなかなか険しいです。当時の人はどのぐらいの頻度でこの場所を訪れていたのでしょうか…。そのようなことを考えながらひたすら歩きました。
しばらく歩くと金堂跡に立てられた崇福寺跡を示す碑があります。
これは後方から撮影したもの。
周囲の写真。
また、崇福寺跡は百穴古墳群に隣接しています。
この古墳群は確認できるものだけで60基、埋没したものも含めると100基以上になると想定されている大変興味深いものでした。時代は6世紀と考えられており、ドーム状の横穴式石室を持ち、祭祀用の炊飯具が一緒に納められていたのが大きな特徴です。これは大津市の坂本から錦織の地域に集中して見られるものです。また、錦織という地名は、かつてこの地で機織(はたおり)の仕事をしていた渡来系の錦織氏から由来したものと言われており、この古墳群は渡来人の共同墓地であったのではないかと考えられています。
天智天皇が大津宮に遷都した理由にいまだ決定的な説はありません。しかし、この場所に渡来系の有力豪族や職人が多く居住していたことにやはり関係性があったのだと思います。
場所を移して京都は山科の天智天皇陵です。
道路に面した道を10分ほど歩きます。
とても静かな空間でした。よく整備されていますし、史跡とはまた違う独特の雰囲気があります。
なぜ大津宮で政治を行なっていた天智天皇の陵が山科にあるのか不思議なところなのですがこれも確説はありません。平安時代末期にかかれた歴史書「扶桑略記」では、”天智天皇が馬に乗って山科の里まで遠出をしたまま帰って来ず、後日履いていた靴だけが見つかった。その靴が落ちていた所を陵にした”としてありますが、日本書紀には天智天皇は病死したことになっています。
なぜか山科に存在する天智天皇陵…興味深いところですが、これ以上深堀りすることは他の人に任せて、私は政策について調べていくことにします。近いうちに政策に関わるエントリーを投稿するので、よろしければそちらにもお付き合いください。