観光客とウミガメと渡り鳥-”これから”の生き方
数週間前に東浩紀氏の「弱いつながり 検索ワードを探す旅」を読みました。偶然に身を委ねて生きている僕としては大変共感できる内容で、自分の生き方を考えなおす良いキッカケになりました。そして辿りついたのはまた別の結論。しかし、それが現代の若者とっては一つの選択肢であると感じるのでここに書いてみたいと思います。
東さんは著書のなかで人生論を下記のように説明し、観光客としての生き方を提案しています。
世のなかの人生論は、たいてい二つに分けられます。ひとつの場所にとどまって、いまある人間関係を大切にして、コミュニティを深めて成功しろというタイプのものと、ひとつの場所にとどまらず、どんどん環境を切り替えて、広い世界を見て成功しろというタイプのもの。村人タイプと旅人タイプです。でも本当はその二つとも同じように狭い生き方なのです。だから勧めたいのは、第三の観光客タイプの生き方です。村人であることを忘れずに、自分の世界を拡げるノイズとして旅を利用すること。旅に過剰な期待をせず、自分の検索ワードを拡げる経験として、クールに付き合うこと。
私はここで「自分は一体どのタイプだろうか?」と考えてみました。まず間違いなく村人ではありません。しかし、旅人なのかと言われるとそれも微妙なところです。私はバックパッカーでもなければ海外旅行すらしたことがありません。なので、むろん観光客とも違います。強いて言えば移民でしょうか。私はいまインドにある日系企業で仕事をしながら現地で暮らしています。かといって、「インドにずっと住むの?」と聞かれたらそれも違います。やっぱり移民でもない。
一方で、ウミガメとしての生き方を提唱する人もいます。ITやベンチャーの世界ではとても有名な加藤顺彦という人です。加藤さんは、海外に出て成功して母国に貢献する人のことをウミガメと評しています。ウミガメのように外海で大きく成長して、故郷に卵を産みに帰ってくる、という意味だそうです。
私は自分がウミガメタイプなのか考えてみました。しかし、やっぱりそれも何か違う。残念ながら、外海で成長して日本に卵を産みにまた戻ってくるんだ!という立派な志は持ち合わせていません。世代論はあまり持ち込みたくありませんが、ゆとり世代といわれる我々は、なかなか世知辛い人生を歩んでいます。生まれてこのかた好景気を経験したこともなければ、将来の年金すら危うい。大企業がリストラを敢行するニュースを尻目に、何百通のエントリーシートを送る就職活動。日本を自分の村とする、卵を産みに戻ってくるどころか、日本を脱出した方がむしろ良いぐらいの雰囲気です。
脱出といえば聞こえは悪いですが、それを自立と言い換えればどうでしょうか。日本社会に依存するのではなく、他の社会でも生きていけるよう自立をする。これが今の私の生き方を表す一番適した表現だと思います。何かに形容するとすれば、渡り鳥タイプでしょうか。渡り鳥は環境の変化に合わせて生活の基盤を柔軟に変えていきます。旅人ほど次々に新しい場所へ行くわけではない、観光客ほど表層的ではない、ウミガメほど大げさなものでもない、より良い暮らしの為に海を渡るというドライな生き方です。生活の基盤が自分の村にある観光客と違って、新しい土地を開拓する渡り鳥の生き方は過酷です。違う環境の社会で生きぬくべく、その社会に順応していく必要がありますから。一歩間違えると飢え死の可能性もあります(キャリア的な意味で)。しかし、だからこそ、観光客では覗けない世界を見ることができるのです。
例えば、僕がいま住んでいるインド。インターネットでインドについて調べてみると、多民族国家で牛が神聖な生き物であることがなんとなくわかります。しかし、どれぐらい多民族国家で牛を大事に思っているかは、実際に住んで身をもって体験しないと本当の意味ではわからないでしょう。
オートリキシャ(三輪のタクシー)に乗って街を走ってみれば、道を塞ぐ牛に対してドライバーがクラクションをけたたましく鳴らす。牛は慣れたものでのっそりと体をどかす。ふと道端に目をやれば、牛が屋台の果物を盗み食いしようとして店主に頭を叩かれる。これがインドの日常です。日常のなかに牛がいます。
ところかわって、ヒンディー教のお寺に行けば、クリシュナ(インドの神の一人)が牛に囲まれた壁画が飾られています。また、別のお寺に行けば、今度はシヴァ(インドの神の一人)が牛に跨がっています。これは日本でいうアマテラスやスサノオが牛とともにいるようなものです(たぶん)。インドの人々はこうした神々の像のまえで熱心にお祈りをしています。また、なにかのお祭りがある度に、インド神話を必ずというほど説明してくれます。これでさすがに「なんで牛を食べないの?」とは口が裂けても聞けません。それは見ればわかるだろと。
その一方で、普通に牛を食べるインド人もいます。ナガーランド州の人々です。彼らの多くはクリスチャンであり、インドの神々を信仰していません。ちなみに、ナガーランド州(インド最東部)では10以上の民族が生活しており、それぞれの民族がそれぞれの独自の言語を持っています。なぜ僕がそれを知っているかというと、答えは単純でナガーランド州出身の友人ができたからです。彼と一緒にグジャラート州(インド最西部)を散策したときは、私の英語も彼の言語も現地で通じなくて途方にくれました。インドは他民族国家だと言われていますが、やはりそれを文字で知るのと、インド人と一緒にインドの街を散策しているのに言葉が通じない体験をしたのではやはり理解が違います。
こうした深いところまでの体験ができるのは、観光客ではなく一時的とはいえ根を張っている渡り鳥ならではの利点ではないでしょうか。また、異文化を理解し、そこで仕事をしていくことによって、精神的な安定が発生します。会社の経営でも収入源が一つに依存するとリスクになるように、「いざとなればこっちの社会で生活するからいいや」と思えるようになることは、自分の生活にゆとりを運んでくれるからです。
もちろん、それぞれの生き方にはそれぞれのメリットデメリットがあります。一つのコミュニティを掘り下げる村人タイプが悪いわけではありません。大前提として、個人が自分の好きな道を自由に選べば良い。しかし、最近の若者は、これまで日本で論じられてきた旅人タイプと村人タイプに当てはまらない人が多いのではないかと感じています。また、観光客タイプになりたくても経済的資本が足らない、ウミガメタイプになりたくてもそんな大志を抱くことができない、そういう人も少なくないはずです。そこで、自分本位でドライな渡り鳥タイプの出番です。世界は広い、きっと自分にとって適切な場所があるはずです。
「どの道を選んでも苦もあれば楽もある。それなら自分の好きな道(=場所)で生きようじゃないか」これがこのエントリーの主な提案です。しかし、繰り返しますが、サバイバルな渡り鳥タイプは、自分で考えること、努力することを止めれば、簡単に詰みますのでご注意ください。僕もまだまだこの道の途上。どんな結末が待ち受けているか分かりませんが、自分の身をもってその答えを確かめるつもりです。いずれにせよ、一度だけの人生、思う存分に楽しめる生き方をしていきたいものですね。それではさようなら。
基礎学習のカーンアカデミー、専門学習のコーセラ
最近はオンライン学習の老舗中の老舗、カーンアカデミーに参加しています。なぜもっと早くから始めなかったんだろう?そう思わず言いたくなるほど、カーンアカデミーは素晴らしいものだと感じています。その最大の特徴は、他のMOOCsは各大学のプラットフォームであるのに対して、カーンアカデミーはカーン氏(創業者)自らが全ての動画の作成・講師を手がけていることではないでしょうか。
ところで、私は積極的にオンライン学習に取り組んでいる人は、2つのグループに別けられると考えています。1つは「自身の職種や専攻などで特定の知識を補完したい人々」。そして、もう一つは「まったく新しい分野の勉強をしている人々」です。私はもちろん後者のグループで、本来大学で勉強するはずの基礎的な知識から専門分野までを、どうにかオンラインで取得できないかと奮闘しているところです。
さて、そんな大それた野望のもと、コーセラで一生懸命勉強していくなかで、ある懸念が浮かんできました。それは「後者にとって、MOOCsは本当に適当なサービスだと言えるのだろうか?」ということです。この懸念は下記の理由に基づいています。
- コースに参加できる期間が限られている為、過去の動画を見ることが出来ない
- 部分的なコースが多く、なにかを体系的に学ぶことが難しい
コーセラでは推薦図書が用意されているので、それらを読破することによって、自身でカリキュラムを作成できる可能性があるものの、新しい分野で、しかも基礎知識の乏しい人間がそれをするのは若干ハードルが高いです。そこでカーンアカデミー、ここでは全ての動画がいつでも視聴可能な上、一つ一つが関連性をもって作成されています。これはカーンアカデミーそのものがコンテンツを配信しているからこそ成せるものだと思います。また、初級者向けに向けた動画も多数用意されています。
よって私の結論はこう。まずはカーンアカデミーで基本的な部分を学ぶ(基礎学習)。次にコーセラを定期的にチェックして、関連性の高いコースがあれば参加する(専門学習)。こうすることによって、新しい分野でもオンライン学習での独学で身につけることが出来るのではないでしょうか。
ちなみに、いま私はカーンアカデミーで経済の勉強をしています。もうしばらくは幅広く一般教養のようなものを勉強し、その後自身の専攻を決めるつもりです。
起業からの4年間を振り返って
このエントリーは2013年3月に書いて、そのまま下書きに眠っていたものです。当時なぜ公開しなかったのか?…もうその時の心情をはっきりと覚えていませんが、1年半が経ち、すっかり存在を忘れたいま、偶然見つけたのであらためて公開しようと思います。
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前回のエントリーでご報告させて頂きましたが、もうじき経営者としての時間は小休止となります。またいつか奮起して起業する日もなきしにもあらずですが、しばらくは先になることでしょう。これまで18歳からガムシャラに働いてきましたが、特に起業してからの4年間は第二の青春とも言える充実した時間でした。このエントリーでは、取締役に就任してからの自分を総括してみようと思います。
※現在の事務所。創業時と比べると雲泥の差だ。
私は自分たちを”ベンチャー企業”と称するのに抵抗がありました。それはベンチャーを「先進的な技術・発想で革新に挑む」と定義した場合、自分たちがそれに相応しいと断言できなかったためです。
事業の段階を表すときに「0から1、1から100」という言葉がよく使われます。私はこれを「0から1=売上100万/月、1から100=売上1000万/月」ぐらいの規模感だと捉えています。いまの会社の状態は「0から1は達成して、ようやく1から100の後ろ姿が見えたところ」といったところでしょうか。ここに至るまでに、お世辞にも革新とは言えないことを数多くやりました。起業の現場は、クリエイティブという言葉とは程遠く、きわめて泥臭いものです。そうしたところが自らを”ベンチャー企業”と名乗れない歯がゆさに繋がっているのだと思います。
そういう意味で、私はベンチャーとしての総括をすることはできません。しかし、起業(=業を起こす)したことや、それを0から1まで育てたことについては、第一線で戦ってきましたので、それなりに意味のある総括になるかと思います。実際の事業をふまえて一つひとつ振り返っていきますので、おそらく長文になりますが、ご興味のある人は読み進めて頂ければ幸いです。
1.起業ありきの出発
私は起業したときに「この事業で世の中を変えたい!」といった志は持ち合わせていませんでした。どちらかと言えば、「サラリーマンの組織から抜け出したい!」という邪まな気持ち?のもと、勢いで起業してしまったタイプの人間です。なので、いざパートナーとの初めての打ち合わせは「なにをやろうか?」というものでした。
若者が”ゆとり世代”と叩かれやすい現代ですが、逆に私のような勢いだけのタイプは”意識の高い(笑)”とこれまた叩かれます。なんとも世知辛い時代ですが、私の実感として勢いだけの出発はありだと思います。もちろんリスクはありますが、就職浪人などをして立ち止まっている状態よりは遥にリスクは低いです。
実際に私たちがどうしたかと言うと、当時22才の若者2人に優れたアイディアがパッと浮かぶわけもなく、ただただ困っていました。そうしていたところに、知り合いの会社からあるサービスの代理店をやらないか?と声をかけられます。とりあえず勢いだけはあった私たちは、その話に乗っかることにしました。
それがこのサービスです。いまでは全国展開されており、運営会社も”ゲーミフィケーションを人事評価に導入した企業”と注目されています。しかし、2009年時点では、まだまだ売り出し中の企業の一つで、京都進出の際に代理店を募集されていたようです。
私は意気込んで営業活動に望みましたが、なんと一ヶ月間で契約は2店舗しか取れませんでした。「このままではまずい!」という焦りはありましたが、取れないものは取れません。それまで個人宅営業しか経験していなかった私は、飲食店や美容店のニーズが掴めておらず、はっきり言えば世間知らずでした。また、上請けとの契約は「反響をベースにした成果報酬」になっており、掲載決定時の売上はわずかなもので、長期的にキャッシュインを見込むタイプのものになっていました。つまり、能力的にもビジネスの枠組的にも勝算はなかったのです。
やはり取り扱いの前に、しっかりと契約内容を把握すること、収支の計算を立て根拠に基づいた目標設定をするべきでした(太字にするまでもないですが…)。当時はそんなことにも頭がまわらず、起業して初めての挫折はすぐにやってきたのでした。しかし、こうした挫折から人は成長していくものです。そして、挫折は行動がないと生まれることはありません。そういう意味でも、まずスタートすることは非常に重要だといえます。
2.キャッシュフローの重要性
そうして私たちが成長している一方で、資本金は喰いつぶされようとしていました。当然、自分たちの給料などありません。会社で使う備品、郵送代、全てが私費でした。私は貯金でやりくりを、パートナーは当時学生であったため奨学金で飯を食っていた状態です。とにかくお金が必要でした。ここで「投資家に画期的な事業モデルをプレゼンして資金調達を…」となるのがベンチャー企業ですが、私たちにそんな事業モデルはありません(この時点で僕はパワポすら使ったことがなかった)。しかし、お金は必要です。”キャッシュフローが早く、技術もいらず、初期投資もいらないサービスはないか?”このテーマを大上段に掲げ、私たちはファミレスで徹底的に議論しました。そして、次ぎに始めたのがこれです。
移動式屋台 ”焼き栗”の販売です。その場で現金収入があって仕入は翌月末払いとキャッシュフローは抜群でした。また、加工済みのものを保温して販売するだけなので、技術の差がなく、複雑な申請を出さなくていいのも利点でした。たしか初期投資は5万円程で済んだはずです。近所のホームセンターで買いそろえ、自分たちで組み立てました。写真手前にある立派なせいろ(=蒸し器)は、組み立ての様子を見ていた近所の人が「面白そうだから譲ってあげる」と無償でいただいたものです。当時はそんな些細な出来事を”流れがきている”と感じていました。
こうして出来上がった屋台を、観光地まで引っ張っていき販売活動を行います。屋台は販売場所が全てです。公共の場(道路など)であれば、警察の許可が必要なのですが、この許可は降りないだろうと見込んだ私たちは、私有地で販売する作戦を取りました。焼きあがった栗を片手に土地の所有者に挨拶にいくのです。その決まり文句は「私たちまだ学生で、どうしても学費を稼がないといけなくて…」でした。 崖っぷちでしたので、使えるものはなんでも使いました。私は前職ではそれなりにチヤホヤされる立場にあったので、多少のプライドもありましたが、この焼き栗の販売はいつか会社が大きくなったとき、良い酒の肴になるはずだと思い込んでモチベーションを維持していました。
焼き栗は原始的なサービスなだけに、知識はないが勢いだけはある若者との相性が非常に良く、開始直後から上々の売上を残してくれました。1日の売上が5万円を超える日もありました。さらに利益率が高いこともあって、ここでようやく会社にお金が貯まるようになります(しかし、まだ給料は出ない)。ただ、花見のシーズンが終われば観光客は減り、気温があがるにつれて売上は減少していきます。結局、焼き栗は6月まですることになるのですが、代わりとなる収入源が早急に必要で、売上がつくようになっても問題がまだまだ山積みの日々を過ごしていました。
ちなみに、私はこの焼き栗を通じて数字の感覚を掴みました。栗を3~4粒ほど焼き損ねると、当たり前ですが品数は減少します。そうなれば、終わったときの粗利率が通常よりも悪くなります。これは試食を提供しすぎても同じことです。粗利率が低いと利益が残りませんので、結果として自分たちを苦しめることになります。たった栗の1粒のロス、これがどういうゴールに繋がっていくのか?このことを理解できたことは非常に大きい糧になりました。後に1000万を超えるような数字を扱うときに、全く困らなかったのはこの経験あってのものだと思います。1円でも1万でも100万でも同じお金です。”売上を最大化して、経費を最小化する”やはり経営はこれに尽きます。…焼き栗と言えど侮れない仕事です。みなさんもぜひお試しあれ。
3.プライドは1円にもならない
何としても売上が必要だった私は、前職時代の上司と取引きに連絡をしました。 「サラリーマンの組織から抜け出したい」と会社を飛び出した人間がどのツラさげて…そんな悔しさはありましたが、個人のチッポケなプライドは1円にもなりません。前職と全く同じ商売を自分の会社でもさせてもらえるように頭を下げて頼み込んだのでした。
それがこちら、ブロードバンドの代理店業です。当時は終盤ではありましたが光ファイバーへの過渡期でもあったので、売上も悪くなく、ようやく会社の経営も安定してきました。この辺りでようやく自分の給料を払えるようになります。今でもその金額を忘れることはありません。額面にして12万円。…たったの12万円?という感じですよね。その"たった"を稼ぐことが本当に大変なんです。
会社は設立から3年で3割が倒産してしまうと言われます。所感としては、プライドを捨てきれない経営者が会社を潰してしまうのかなと思います。もちろん会社の哲学は重要です。私たちは「常に誠実であろう」というのが指針の一つでした。だからどんなに困ってもグレーゾーンにだけは手をつけることはありません。しかし、その哲学以外は全て投げ出す覚悟がきっと必要なのだと思います。やっぱり "無駄なものは1円でも高いし必要なものは100万でも安い” は正しくて、必要か否かをその哲学にそって判断していくべきなのだと思います。それでも会社が倒産する場合は、残念ながらその哲学が社会に求められていないということでしょう。
4.自社サービスとの奮闘
私たちが自分の給与を最小限にしていたのには理由がありました。それはいち早く自社ブランドのビジネスに挑戦したかったからです。紛いなりにもベンチャーと銘打っている以上どこかの下請けに甘んじ続ける訳にはいかんだろう、そんな気持ちが強くありました。
資金力に乏しい私たちは、持っている強みを活かしニッチを突こう、とにかくそのことばかり考えました。そして私たちの強みはやはり「若いこと」です。バカみたいな結論ですが、こちらは至って真剣です。経験や技術がないので持ち合わせで勝負するしかありません。若いことを「若い=若者の気持ちがわかる=若者の集客が出来る」と言い換えて、高校生向けの広告事業で勝負することに決めました。
フリーペーパーINST、記念すべき最初の自社サービスです。フリーペーパーは設置場所が命、それがどういう人にどれだけ読まれるかを決めます。私たちは他社との差別化を図るため学校内に直接設置や配布が出来ないか?と考えました。校内にあることは公的なイメージを持つので広告の付加価値にもなります。しかしだからこそ、なかなか許可の降りない校内設置、なにかしらの策が必要です。そこで、誌面内にインタビュー記事を企画し、某府知事へ打診することにしました。「公立高校へ設置が"検討"されている」ということで知事には快諾して頂き、「知事のインタビュー記事が掲載される"予定"」ということで公立高校からは設置の許可が降りました。第一号目で設置の実績が出てからは、どんどん拡大を図り、あっという間に関西圏の1000校強の学内にフリーペーパーを設置することができました。
順調に感じたのも束の間、設置校増加にともなうコストに広告収入が追いついてきません。にも関わらず、これからはモバイルの時代だと専用SNSをオープンさせました。「それなら最初からモバイル一本勝負だろ」と盛大にツッコミたいところですが、若気の至りか私たちはイケイケでした。そして、あえなく失敗…。しかし、経営に響くようなダメージを負う前に、撤退へと踏み切ったことは英断であったと思います。経験がない以上、やってみないと分からないことばかりです。それは仕方がない。ただ、やってみて分かったのであればスピード感を持って判断をする、それが重要なのだと思います。
5.社内の組織化の難しさ
自社サービスを一時撤退することにしましたが、その間も代理店業は順調に成長しており、年商は数千万規模に、初の新卒採用を実施するなど、それなりに会社は大きくなっていました。ここで一つの決断をします。それは、私が現場を離れ、財務や労務といった社内を向いた管理業務に集中していくというものです。管理会計、人事評価制度、就業規則の導入など、会社が組織として機能する為のものをどんどん取り入れていきました。
正直に言えば、今でもこの判断が正しかったかどうかは分かりません。会社は、新規事業チーム、代理店業チーム、管理業務チームの3チーム体制となり、たしかにそれらしくなりましたが、営業現場で戦っている社員と距離間を感じることが増えました。新規事業チームは会社の根幹として、代理店業チームはキャッシュの要として、それぞれが強い責任感を持って行動してくれているなかで、後ろから偉そうに口だけ出すバックオフィスの人間はさぞ疎ましいものだったでしょう。また、他のメンバーを信頼して大人しく見守ることが出来ない未熟さが自分にもありました。
…そして今に至ります。結果として、新たな自社サービスは単体で年商千万単位の規模となり、代理店業は今も変わらずキャッシュを捻出してくれています。また、会社組織はいつ税務調査が入っても問題なく対応できるぐらいに組織化しました。しかし、冒頭に書いた「1から100=売上1000万/月」のラインを達成することは出来ませんでした。その原因は、やはり自らのマネージメント能力にあると感じています。創業時の会社には、なんとも形容できぬ勢いや一体感があり、多少の問題なら跳ね除けてしまうものです。ただ、時が経つに連れて、また新たなメンバーが入るに連れて、それは効力を失い、経営者の真の能力が試されます。悔しいですが、私はまだそのレベルには至っていなかったということでしょう。
6.まとめ
本当は新たな自社サービスや、独自の管理会計、人事評価制度などにも触れたかったのですが、これらは現在も会社が関係しているものなので自重しておきます。
さて、はたして私はこの4年間で自分の責務を全うできたのでしょうか。もっと上手くやれたかもしれない…そんな想いが頭を離れません。結局のところ会社は人です。いかに人を集めるか、いかに人を活かすか、いかに人に楽しんでもらうか、そんな枠組みを創るのが経営者の仕事のはずです。しかし、管理業務にシフトしてからは「いかに会社らしくするか」ということばかり考え、人を見ることを忘れてしまっていた気がします。
起業すること自体はとても簡単です。登記さえすれば誰だって社長になれる。しかし、取引先を持つ、社員を雇う、それらには非常に重い責任が伴います。自分の決断が人の人生を変えてしまうことも充分にありえます。その事実を経営者は片時も見失ってはいきません。恥ずかしながら、私は自分本位の人間なのかもしれません。自分で始めた会社を途中で降りることは、その責任を放棄しているのではないか、またそのことを考えること自体が、自分本位になっている証拠ではないか、終盤はモヤモヤとそんなことを考える時間が増えました。
たかが牛、されど牛…ガンジーとインド人と牛
聞き手:牛の保護についてあなたの意見を聞かせ頂けないか。
ガンジー:私自身は牛を尊敬している。また牛に親しみと愛情の念を覚えている。牛はインドの守り主だ。なぜなら我々の農業は牛のおかげで成り立っているからだ。牛は数多くのなかで最も有益な動物と言えるだろう。これはムスリムの人々も認めている。しかし、私が牛を尊敬すると同様に、私は私の同胞も尊敬しているのだ。同胞がヒンドゥーかムスリムであるかに関わらず、それは牛と同様に有益な生き物である。そんなムスリムの同胞を、牛を守るために争い、殺すというのか?そうしていくなかで、私はムスリムのみならず、牛の敵にさえなってしまうだろう。したがって、私の知っている牛を守る方法はこれしかない。それはムスリムの同胞を、国の為に牛の保護をしていこうと説得することだ。もし彼が私の言葉に耳を傾けなかった場合は、私が未熟であったということだ。そのときは私の人生を牛を守るために費やそう、決してムスリムを取り除くわけではなく。これが我々の宗教のルールのはずだ。
初めて聞いたインド民話が興味深かったのでぜひ紹介したい
現在edxというマサチューセッツ工科大学が主催しているMOOCで、Engaging Indiaというコースを受講しているのですが、その中のトピックに「インドにおける口伝民話」という内容のものがありました。それは講義と共に、インド人の教授が実際に民話をいくつか披露してくれるという贅沢なもので、また民話そのものが興味深いものだったので、ここで紹介したいと思います。※初めて翻訳をするので、細かいニュアンスを知りたい人はコースを受講することをお薦めします。
サドゥと腰布
サドゥとは、財産を捨て、家族と離れ、また妻を持つこともなく、全ての時間を宗教に捧げるヒンドゥー教の苦行者のことである。サドゥが唯一持っているものと言えば、腰布と小さいお茶碗ぐらいのもので、人々がそのお茶碗に恵んでくれたものを食べ、路上で暮らしていた。
ある日、サドゥがその腰布を洗濯し、乾かしていると、ネズミが布に穴をあけているのを見つけた。これでは瞑想に集中することができない。サドゥは食べ物を恵んでくれた地元の人々にこう言った。「これを見てくれ。この辺りはネズミがいっぱいだ。私の瞑想の邪魔をするし、あげくに腰布に穴をあけてしまったよ!」地元の人々はこう答えた。「マハラジ(敬意を込めた人の呼び方)、猫を飼ってみてはどうですか?」そして、彼らはすぐにサドゥの元へ猫を連れてきた。
猫が住み始めてしばらくすると、ネズミは途端に姿を消した。しかし、さらにしばらくすると猫も姿を消してしまった。そこへ偶然通りかかった地元の人々が、サドゥへこう尋ねた。「やあマハラジ、修行の方はいかがですか?」サドゥはこう返した。「猫がどこかへ行ってしまったから、もうじきネズミが戻ってきてしまうよ。」すると地元の人は言った。「マハラジ、猫にミルクをあげていましたか?」サドゥは言った。「私はこの路上で暮らしているし、それにそんな時間はないよ。」それを聞いた彼らはすぐにサドゥの元へ牛を連れてきた。
牛はしばらく猫に乳を与えた。しかし、やはりもうしばらくすると牛は乳を出すことができなくなってしまった。地元の人々はこう言った。「マハラジ、牛の世話をちゃんとしていましたか?」そして、やはりサドゥはこう返した。「いいや、私に牛を世話する余裕はないよ。」それを聞いた地元の人はこう答えた。「マハラジ、あなたには召使いが必要だ。」そして、彼らはすぐにサドゥの元へ一人の男を連れてきた。
召使いはよく牛の世話をした。牛が乳を出すので、猫は戻ってきて、ネズミもいなくなった。サドゥも瞑想の邪魔をされることもなくなった。しかし、上手くいっているように見えたのもつかの間、しばらくすると召使いが家に帰りたいと言い出した。サドゥは尋ねた。「どうして家に帰りたいのか?」すると召使はこう答えた「私には愛する家族がいるのです。」サドゥはこう言った。「お前がいなくなったら一からまたやり直しだ。家族も一緒にここに住めばいいではないか。」そして、召使いはすぐにサドゥの元へ家族を連れてきた。
今度はサドゥの周りはまるで家族の団欒のように賑やかになった。やはりサドゥは瞑想に集中することができない。ある日、サドゥは召使いと彼の妻の様子を見ながらこう尋ねた。「召使いよ、いまお前は幸せか?」すぐさま召使いはこう答えた。「マハラジ、もちろんです。」サドゥはこう言った。「私は幸せではない。…私も結婚したい。」
いかがでしたか。“You are what you read “という言葉がありますが、僕はインド人がこうした民話を聞きながら育つのかと思うと少し感慨深いものがありました。人間が人格を形成するまでに触れる情報源を辿っていけば、その国の人間性を理解できる気がします。日本人もアリとキリギリスを母親から聞かされて、我慢する素晴らしさみたいなものを幼少から植えつけられたりしますしね。
アーメダバード(西インド)へお引っ越し
VISAの申請から数週間が経ちまして、ようやく就労VISAがおりました。最近は比較的時間がかからないと聞いていたのですが、さすがインドは渡航前から一筋縄でいきません。ともかく、これで晴れて題名の通り、西インドはアーメダバードへ引っ越しをすることになりました。念のためもう一度、出張ではなく引越しです。いつまで住み続けるかは今のところわかりませんが、できるだけ長く、そして深く、インドに飛び込んでみようと考えています。
※グジャラート州に属する人口が約630万の都市
おそらくアーメダバードは多くの日本人にとって馴染みのない場所だと思います。私はつい数ヶ月前まで名前すら聞いたことがありませんでした。実際、ここには日本人がまだ47人しか住んでいないそうです。ただ、大手日本自動車メーカーの工場設立が決まったりと、実は少しずつ注目を浴びてきている都市でもあります。それに合わせて、日系企業も徐々に進出してきており、私もそのうちの一つの企業で仕事をしてきます。
残念なことに、多くの人がインドに対してネガティブな印象を持っているみたいで、「インドで仕事って本当に大丈夫なの?」と声をかけられることがよくありました。心配はいりません。ちょっと気温が40度を超えたり、空気が汚かったり、衛生面に不安が残ったり、英語の鈍りがひどかったり、時間にルーズだったり、牛と豚と野犬が街中にいたり、ご飯が辛かったり、ぼったくりにあったり、遊ぶ場所がなかったりするだけで、私にとっては愛すべきインドです。
また、ちまたでは、グローバル人材だ、若者の海外就職だ、と言った議論が多くなされておりますが、私の行動はこれらとは基本的にはかけ離れているものです。実は、私は自分のキャリア設計にそこまで関心がありません。5年前の起業にしても、今回のインドにしても、きっと私はいつまで経っても「自分がやりたいことをやる」人間なのだと思います。当然それにはそれなりのリスクが含まれますが、そのぶんモチベーションが伴いますし、なによりも楽しいです。人生は楽しいことが一番、楽しいから努力できるし頑張れます。この調子でいつまで生きられるか私にもわかりませんが、もうじきやってくる30歳の節目は、このまま全速力で駆け抜けてやろうと思います。それでは、みなさんまた世界のどこかでお会いしましょう。インドに来るときは是非お声がけくださいね。
MOOCで本当に価値があるのは講義でなく推薦図書かもしれない
先日 オレオレ大学 なるものを高々と宣言し、MOOCでの学習に日々励んでいる私ですが、最近になってネット上でMOOCへの厳しい批評を目にすることが増えてきました。そうしたものに対して「はたして本当にそうかな?」と考えていたのですが、そのなかで改めて気づいたことがあったので、ここでそれを共有しておきたいと思います。
上記の画像は私がよく利用するCourseraのキャプチャですが、TOP画面からもわかるように、多くの魅力的な講義が並んでいます。しかし、最近になって私は、その講義そのものよりも、その中で紹介されている推薦図書にこそMOOCの価値があるのではないかと感じました。
本論に移る前に、まずは批評の内容を簡単に共有させてください。私が一番厳しいな感じた記事はこちら。MOOCの「修了証」なんて就職の役に立たない あくまでも「学位」じゃないと意味が無い ブランド大学が、そのバリューを毀損するようなことを本気でやると思う?
アメリカではMOOCを終了した事が求職者の履歴書に書かれていても、採用担当者は「あ、そう」程度でオシマイ。真剣にそれを受けとめることはしないと思います。
誰でも、無料で有名大学の授業が閲覧できることは、それを視聴した人がハーバードやMITの卒業生と同じアカデミックな達成度(Education outcomes)に到達できることを意味しない
たしかにこれは一つの事実ではあるでしょう。私もMOOCの講義を終了しただけで、その学問が自らのものになるとは思いません。ただ、仮に実際の大学と同程度の”アカデミックな達成度”が手に入るとすれば、少なくとも求職活動中に苦戦を強いられることはないと思います。つまり、論点はMOOCでの学習の価値が、大学でのそれに値するのか?ということです。では、学習そのものの本質は環境によって内容が左右されるのでしょうか?決してそのようなことはありません。では、そもそも学習とはなにか?…それは一つのことを体系的に学ぶことだと私は考えています。
例えば、私は日本の古代史について勉強している時期がありました。古代史というのはなかなかの曲者で、あの有名な十七条憲法にしても、作成時期は推古朝時代か日本書紀編纂時なのか、作者は一体誰なのか、条文ごとの解釈について、などなど様々な説があります。 それらの学説をそれぞれの立場から一つ一つ読み込んでいく…そうして初めてようやく十七条憲法のことがぼんやり理解できてくるのだと思います。学習とは、一冊の教科書を読んでそれを記憶すること、では決してありません。
さて、体系的に学ぶということに関して、必ず求められるのがインプットの量です。これがなくては何も始まりません。しかし、それこそ学んでいる分野の必読書を体系的に揃えることは容易ではありません。そこでMOOCの出番です。私がいま受講しているコースは The Modern World: Global History since 1760 -Coursera- .なのですが、ここでは強制ではないものの、推薦図書の一覧が用意されています。それがこちらです(リンクは全て削除していますが、Amazonへのものもあれば、そのままPDFで読むことが出来るものもあります)。
- Peter von Sivers, Charles Desnoyers, & George Stow, Patterns of World History: Since 1750 (New York: Oxford University Press, 2012).
- R.R. Palmer, The Age of the Democratic Revolution: The Challenge (Princeton: Princeton University Press, 1959)
- Odd Arne Westad, Restless Empire: China and the World since 1750 (New York: Basic Books, 2012)
- Frederick Artz, "The Creeds of Liberalism," & "The Rise of a New Generation," in Reaction and Revolution 1814-1832(New York: Harper, 1934), pp. 82-109, 184-214
- Michael Barnhart, "Domestic politics, interservice impasse, and Japan's decisions for war," in May, Rosecrance, & Steiner, eds., History and Neorealism (Cambridge: Cambridge University Press, 2010), pp. 185-200
- Christopher Clark, "Murder in Sarajevo," in The Sleepwalkers: How Europe Went to War in 1914 (New York: HarperCollins, 2013), pp. 367-403
- John Darwin, introduction to The Empire Project: The Rise and Fall of the British World System, 1830-1970 (Cambridge: Cambridge University Press, 2009), pp. 1-20
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いかがですか?なかなかのボリュームでしょう。私自身もまだこれを読破したわけではありませんが、読み込んでいくなかでさらに読むべき本も見つかるでしょうし、これは一つの分野について体系的に学んでいると言っても問題ないと思います。
つまり私の結論はこういうことです。MOOCそのものの価値は素晴らしい。後は生かすも殺すもユーザー次第。たしかにMOOCの受講者の全員がアカデミックな達成度を得られるわけではありません。また、一部の知識を補完する目的でコースを受講するのも一つの有効な活用法です。しかし、いずれにせよ、どんな目的であれ教育の門戸はインターネットユーザー全員に平等に開かれている。それこそがMOOCですし、私はそれが素晴らしいのだと思います。