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観光客とウミガメと渡り鳥-”これから”の生き方

 数週間前に東浩紀氏の「弱いつながり 検索ワードを探す旅」を読みました。偶然に身を委ねて生きている僕としては大変共感できる内容で、自分の生き方を考えなおす良いキッカケになりました。そして辿りついたのはまた別の結論。しかし、それが現代の若者とっては一つの選択肢であると感じるのでここに書いてみたいと思います。

弱いつながり 検索ワードを探す旅

弱いつながり 検索ワードを探す旅

 

  東さんは著書のなかで人生論を下記のように説明し、観光客としての生き方を提案しています。

世のなかの人生論は、たいてい二つに分けられます。ひとつの場所にとどまって、いまある人間関係を大切にして、コミュニティを深めて成功しろというタイプのものと、ひとつの場所にとどまらず、どんどん環境を切り替えて、広い世界を見て成功しろというタイプのもの。村人タイプ旅人タイプです。でも本当はその二つとも同じように狭い生き方なのです。だから勧めたいのは、第三の観光客タイプの生き方です。村人であることを忘れずに、自分の世界を拡げるノイズとして旅を利用すること。旅に過剰な期待をせず、自分の検索ワードを拡げる経験として、クールに付き合うこと。

 私はここで「自分は一体どのタイプだろうか?」と考えてみました。まず間違いなく村人ではありません。しかし、旅人なのかと言われるとそれも微妙なところです。私はバックパッカーでもなければ海外旅行すらしたことがありません。なので、むろん観光客とも違います。強いて言えば移民でしょうか。私はいまインドにある日系企業で仕事をしながら現地で暮らしています。かといって、「インドにずっと住むの?」と聞かれたらそれも違います。やっぱり移民でもない。

 一方で、ウミガメとしての生き方を提唱する人もいます。ITやベンチャーの世界ではとても有名な加藤顺彦という人です。加藤さんは、海外に出て成功して母国に貢献する人のことをウミガメと評しています。ウミガメのように外海で大きく成長して、故郷に卵を産みに帰ってくる、という意味だそうです。

講演録 若者よ、アジアのウミガメとなれ

講演録 若者よ、アジアのウミガメとなれ

 

  私は自分がウミガメタイプなのか考えてみました。しかし、やっぱりそれも何か違う。残念ながら、外海で成長して日本に卵を産みにまた戻ってくるんだ!という立派な志は持ち合わせていません。世代論はあまり持ち込みたくありませんが、ゆとり世代といわれる我々は、なかなか世知辛い人生を歩んでいます。生まれてこのかた好景気を経験したこともなければ、将来の年金すら危うい。大企業がリストラを敢行するニュースを尻目に、何百通のエントリーシートを送る就職活動。日本を自分の村とする、卵を産みに戻ってくるどころか、日本を脱出した方がむしろ良いぐらいの雰囲気です。

 脱出といえば聞こえは悪いですが、それを自立と言い換えればどうでしょうか。日本社会に依存するのではなく、他の社会でも生きていけるよう自立をする。これが今の私の生き方を表す一番適した表現だと思います。何かに形容するとすれば、渡り鳥タイプでしょうか。渡り鳥は環境の変化に合わせて生活の基盤を柔軟に変えていきます。旅人ほど次々に新しい場所へ行くわけではない、観光客ほど表層的ではない、ウミガメほど大げさなものでもない、より良い暮らしの為に海を渡るというドライな生き方です。生活の基盤が自分の村にある観光客と違って、新しい土地を開拓する渡り鳥の生き方は過酷です。違う環境の社会で生きぬくべく、その社会に順応していく必要がありますから。一歩間違えると飢え死の可能性もあります(キャリア的な意味で)。しかし、だからこそ、観光客では覗けない世界を見ることができるのです。

 

 例えば、僕がいま住んでいるインド。インターネットでインドについて調べてみると、多民族国家で牛が神聖な生き物であることがなんとなくわかります。しかし、どれぐらい多民族国家で牛を大事に思っているかは、実際に住んで身をもって体験しないと本当の意味ではわからないでしょう。

 オートリキシャ(三輪のタクシー)に乗って街を走ってみれば、道を塞ぐ牛に対してドライバーがクラクションをけたたましく鳴らす。牛は慣れたものでのっそりと体をどかす。ふと道端に目をやれば、牛が屋台の果物を盗み食いしようとして店主に頭を叩かれる。これがインドの日常です。日常のなかに牛がいます。

 ところかわって、ヒンディー教のお寺に行けば、クリシュナ(インドの神の一人)が牛に囲まれた壁画が飾られています。また、別のお寺に行けば、今度はシヴァ(インドの神の一人)が牛に跨がっています。これは日本でいうアマテラスやスサノオが牛とともにいるようなものです(たぶん)。インドの人々はこうした神々の像のまえで熱心にお祈りをしています。また、なにかのお祭りがある度に、インド神話を必ずというほど説明してくれます。これでさすがに「なんで牛を食べないの?」とは口が裂けても聞けません。それは見ればわかるだろと。

 その一方で、普通に牛を食べるインド人もいます。ナガーランド州の人々です。彼らの多くはクリスチャンであり、インドの神々を信仰していません。ちなみに、ナガーランド州(インド最東部)では10以上の民族が生活しており、それぞれの民族がそれぞれの独自の言語を持っています。なぜ僕がそれを知っているかというと、答えは単純でナガーランド州出身の友人ができたからです。彼と一緒にグジャラート州(インド最西部)を散策したときは、私の英語も彼の言語も現地で通じなくて途方にくれました。インドは他民族国家だと言われていますが、やはりそれを文字で知るのと、インド人と一緒にインドの街を散策しているのに言葉が通じない体験をしたのではやはり理解が違います。

 こうした深いところまでの体験ができるのは、観光客ではなく一時的とはいえ根を張っている渡り鳥ならではの利点ではないでしょうか。また、異文化を理解し、そこで仕事をしていくことによって、精神的な安定が発生します。会社の経営でも収入源が一つに依存するとリスクになるように、「いざとなればこっちの社会で生活するからいいや」と思えるようになることは、自分の生活にゆとりを運んでくれるからです。

 

 もちろん、それぞれの生き方にはそれぞれのメリットデメリットがあります。一つのコミュニティを掘り下げる村人タイプが悪いわけではありません。大前提として、個人が自分の好きな道を自由に選べば良い。しかし、最近の若者は、これまで日本で論じられてきた旅人タイプと村人タイプに当てはまらない人が多いのではないかと感じています。また、観光客タイプになりたくても経済的資本が足らない、ウミガメタイプになりたくてもそんな大志を抱くことができない、そういう人も少なくないはずです。そこで、自分本位でドライな渡り鳥タイプの出番です。世界は広い、きっと自分にとって適切な場所があるはずです。

 「どの道を選んでも苦もあれば楽もある。それなら自分の好きな道(=場所)で生きようじゃないか」これがこのエントリーの主な提案です。しかし、繰り返しますが、サバイバルな渡り鳥タイプは、自分で考えること、努力することを止めれば、簡単に詰みますのでご注意ください。僕もまだまだこの道の途上。どんな結末が待ち受けているか分かりませんが、自分の身をもってその答えを確かめるつもりです。いずれにせよ、一度だけの人生、思う存分に楽しめる生き方をしていきたいものですね。それではさようなら。