大宝律令までの時代背景

前回のエントリー「飛鳥時代の政治と蘇我氏」では、乙巳の変までを蘇我氏を観点にまとめました。ここから歴史は律令国家の成立にむけて動き出していくことになります。私は日本史のなかでも、この”律令国家の成立”にとても興味を持っており、少し時間をかけて掘り下げていくつもりでいます。まずこのエントリーで当時の時代背景を探っていきたいと思います。

 

※こちらの文献から引用しつつ、自分なりの意見を加えて、時代背景を書いていきます。

 

 

乙巳の変蘇我入鹿中大兄皇子中臣鎌子らに暗殺されると、皇極天皇が譲位を宣言します。これが初めて天皇家が天皇位を独自に決定する方式の実現でした。譲位先については、日本書記に“当初は中大兄皇子が推されていたが、年齢・系図の順序から軽皇子となった”とあります。また、この譲位を巡って、蘇我系の古人大兄皇子の名前が挙がりますが、本人が辞退しています。おそらく当時の蘇我氏が置かれている状況を考えたのでしょうが、吉野に隠居した後に、謀反の疑いをかけられて処刑されています。こうしたなか生まれたのが孝徳天皇(軽皇子)です。

 

孝徳朝では646年に改新の詔を宣します。その内容は、今までの国家体制を大幅に変革し、中央国家構築の起点となるものでした。しかし、後の律令条文と類似している部分が多く、日本書記に記載されている改新の詔が当時のものであったかは古くから議論されていますが、いまだに結論は出ていません。ここでは、あくまで時代背景を認識していきたいので、具体的な政治内容については別エントリーにまとめます。

 

653年、孝徳天皇と中大兄皇子に対立が生まれ、中大兄皇子は皇極前天皇や孝徳の大后らを連れて飛鳥に戻ります(当時は難波宮でした)。対立の原因は不明ですが、「まだ脆弱だった天皇の権力を絶対的なものとするため、性急な改革を進める孝徳天皇に反対する勢力であったのでは」と学者の篠川賢は述べています。因果関係があったのかは不明ですが、その翌年に孝徳天皇は死去します。天皇位の継承者には、中大兄皇子の名前が挙がりますが、孝徳の子である有間皇子がいてこの時点ではそれは叶わず、結局は皇極前天皇が斉明天皇として再び即位します。斉明朝では国内の整備を進めていきますが、そのなかで国外の情勢は大きく動いていました。660年に唐・新羅の連合軍によって、日本と外交のあった百済が滅亡させられます。ここから白村江の戦いへ移っていきます。

 

この戦いを知るためには、660年の百済滅亡前後を振り返っておく必要があります。

 643年に新羅が唐に百済・高句麗の領土侵犯を訴え、唐が三国に争いをやめるよう説諭します。この時、随の時代に征討を受けていた高句麗は、唐に対しても正面から敵対します。百済は表面上は謝罪するのですが、645年から始まった唐の高句麗征討の動乱に乗じて新羅侵攻を続けます。新羅は百済との争いのなかで、唐の軍事援助を受けるかどうかで意見が別れていきます。唐は新羅に対して「唐の皇子を国王に迎え入れること」を要求していました。そのなかで、唐の高句麗征討が失敗に終わり、648年に十余城を百済に攻め落とされ、新羅は危地に立たされます。そこで、唐の衣冠を服す・唐の年号を使用する・唐の律令を参考にした制度の導入…などを行い、唐との結合を深めていきます。その影響があってか、百済は651年に唐から新羅との和解を指示され、従わない場合は征討のあることを示唆されますが、百済は唐との対立の道を選んでいきます。

 

 655年に唐の高句麗征討が再開します。この戦いは668年に高句麗が滅亡するまで続くことになります。一方、百済と新羅も争いが続いており、659年に新羅は唐に救援を要請し、唐は高句麗征討の一環として、高句麗に味方する百済の成敗を決定します。そして、660年に唐・新羅の連合軍によって百済は滅亡することになります。白村江の戦いは、百済が復興に立ち上がった際に、日本が救援に乗り出したことにより発生した戦いなのです。

 

661年に斉明天皇は戦いに備え、前線基地となる筑紫に遷居します。しかし、既に高齢であった斉明天皇はここで死去してしまいました。筑紫に宮を造営するときに朝倉社の木を伐ったことによる祟りとの噂もあり、早くも雲行きが怪しくなりますが、王位継承の有力候補であった中大兄皇子が大王位を代行し、百済救援の指揮をとることでこれを乗り切ります。ちなみに、中大兄皇子が長らく即位をしないのですが、その理由には、665年に死去した孝徳天皇の大后の間人皇女との関係があったためという説、代行のままの方が自由に手腕がふるえたという説、など様々な説がありますが確説はありません。

 

さて、その白村江の戦いですが、日本書紀にはこのように記されています。

 

「日本の諸将、百済王と、気象を観ずして、相謂ひて曰く、「我等、先を争はば、彼応(まさ)に自(おのづか)ら退くべし」と。更に、日本の乱伍の中軍の卒を率ゐ、進んで大唐の堅陣の軍を打つ。大唐、便ち左右より船を爽(はさ)んで繞戦(じょうせん)す。須臾(しゅゆ)の際、官軍敗続す。水に赴いて溺死する者衆(おほ)し。艫軸(へとも)、廻旋するを得ず。……其の時、百済王豊璋、数人と船に乗り、高麗に逃げ去る。」

 

我らが先に攻めれば向こうが退くだろうという精神論がなんとも日本人らしく皮肉ではありますが、稚拙な戦略しか持たない日本の敗戦は必然であったといえるでしょう。また、軍の編成にも問題点を抱えていました。日本の軍隊は、地方豪族が集めた兵を主力とする軍を、将軍に起用された中央豪族が引率する形をとっていましたが、豪族同士の関係が並列的で指揮系統が成立していなかったといいます。この敗戦から日本はさらに中央主権国家構築の必要を再認識することになります。ともあれ、この敗戦で百済は完全に滅び、日本へ亡命するか、高句麗へ逃げてさらに戦うか、唐の支配下に入るかの決断を迫られることになりす。

 

この後に、中大兄皇子は甲子の宣(かっしのせん)を大海人皇子に命じて発令させるのですが、「646年孝徳朝の改新の詔」→「664年天智朝の甲子の宣」→「天武朝で始まる部民制の廃止(675年)等の諸政策」→「701年文武朝の大宝律令」これらの政策の移り変わりを理解することが、律令国家成立までの国家観の理解につながると感じているのですが、それはまた別エントリーで。次は壬申の乱について書いていきます。

 

壬申の乱天智天皇中大兄皇子)の後継者問題から起こります。

 当時の後継者の候補は、大海人皇子と大友皇子でした。大海人皇子は、天智天皇の弟であって、甲子の宣の宣布など朝廷の政治に協力しており、天智の娘を含む多くの中央有力豪族と婚姻関係を有する実力者でした。他方、大友皇子天智天皇の実子であって、懐風藻(現存する最古の日本漢詩集)には、亡命百済人との関わりが深く、文武の才に恵まれ、政治指導力も兼備した人物と評されています。また、大海人皇子の娘を妃とする他、中臣鎌足の娘とも婚姻関係があり、天智の臣とも接近がありました。

 

「家伝」によると、宴会の最中に、大海人皇子が長槍で敷板を刺し貫くという出来事があったと伝えられています。この事件は手塚治虫火の鳥でも描写されており、耳にしたことがある人も多いのではないでしょうか。この話の背景には、天智天皇の後継ぎ問題があったのではと考えられています。こうしたなか、671年に天智天皇は死去します。病床の天智は大海人皇子に王位を譲ろうとしますが、これを大海人は奸計を警戒し、出家して吉野に隠遁することを願い出、後事は大友皇子に託すよう進言します。

 

当時の様子を示す文献は日本書紀が中心となりますが、壬申の乱を載せる二十八巻は672年のみを記述する異例の扱いになっています。(通常は一巻で一人ないし複数の天皇を描く)これは勝利者側である大海人皇子にとって、自己の正当性を主張するため如何に壬申の乱が重要であったかを示していると考えられます。なので、壬申紀はあくまで勝利者側に立った記録であるということを踏まえて考えなければなりません。

 

具体的な戦争の中身は割愛しますが、この2人の争いは大海人皇子が勝利し、673年に即位、天武天皇となります。この天武が天皇号を称した最初の君主であったと考えられています。(便宜上、全て天皇としていましたが、それまでは大王という位でした)天皇という称号には、道教的思想に傾倒していた天武が、道教の最高神の一つ「天皇大帝」から採用したという説もあります。ここでは深く触れませんが、天武の思想は別途掘り下げていく必要がありそうです。

 

天武天皇は即位後から、中央官人制へ、681年には律令編纂を宣言し、律令国家の成立へむけて様々な政策を行います。しかし、律令国家が成立するのは、天武天皇が死去し、(686年)持統天皇(天武の大后)が即位、そして697年に孫の文武天皇に譲位してからのことでした。ここでようやく一世紀をかけた中央主権国家の誕生です。ちなみに、その過程で689年に藤原不比等が判事に登用されており、律令貴族としての出発点ともなっています。

 

 

 

大変な長文となりましたが、これで大宝律令までの要所は理解できたと思います。外交国の滅亡を目の当たりにし、自国も戦争に負け、敵国の制度を学んで生まれた律令国家…。私はこの経緯にとても感銘を受けました。敵国に学ぶというのは様々な思いがあっただろうと想像できますが、当時の政治は合理的な判断がなされ進められていったのでしょう。いよいよ次回は具体的な政策について学んでいこうと思います。